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□予感
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湖畔に掛かる靄が外壁を照らす照明を曇らせ、より一層幻想的に聖城を浮かび上がらせる六月の夜。
感じるか感じないか程度の霧雨が髪肌を僅かに湿らせ、大階段に敷かれる深紅の絨毯を更に色濃くさせる。
「アラン様、フジモリ様がお見えになりました」
「ああ、今行く」
「よいですか、ご挨拶の際はお顔を崩されませんよう、何を言われても……」
「わかってるよ。愛想良くだろ?」
「おわかりならば結構。アラン様は直ぐにお顔や態度に感情が出ますから」
にっこりと微笑みながら釘を刺すユウに自覚ある短所を指摘され、「う…」と声を詰まらせる。
物心つく以前から自分を知る彼は執事であり世話係であると同時、時に兄のようでもあった。
成長段階の全てを包み隠さず晒け出してきただけに、ユウにはやはり敵わない。
「フジモリ様、お久しぶりです」
「おお、これはこれはアラン様。会う度にご立派になられますなぁ」
何かと揚げ足を取っては陰口を叩く厄介な相手と知ってはいても、社交辞令のそれらしく、「愛想良く」笑顔で振る舞う挨拶。
水分も枯れた皺がれた手と握手を交わし、案の定始まった嫌味に歪みそうになる眉間を平常心で保つ。
「先日のスピーチは実にお見事でしたなぁ。アラン様のお噂は耳にする度やれ素晴らしい、やれ頼もしいと皆が口々に褒めるものばかり……いやはや、この老いぼれも安心して国政を任せられるというもので」
「お褒めいただき光栄です。ですが、私もまだまだ未熟ですからフジモリ様にはこれからもご指導いただいて……」
「そうでしょうなぁ。アラン様のお年の頃には既にグレン様は王位継承者として、それはそれは立派に務めを果たしてましたから……ああ、アラン様は今は学業にお忙しいんでしたかな?庶民と戯れるのも結構な事です」
カチン、ときた神経が直ぐに眉間に皺を作る。
自分で言うのも何だが、ユウの指摘通り割と顔には出る方だ。
それでも先程から離れた位置で自分を心配気に窺うユウを横目に、冷静になるべく内心で深呼吸を小さく吐き出した―――が、駄目だったらしい。
「そうですね。兄にはまだまだ到底及びません。ですが、私は私なりに王子として、一国民としてオリエンスをより良い国へと導いていけるよう励むつもりです、庶民と戯れながら」
視界の端に映るユウが「はぁ」と溜息と共に肩を落とし、呆れたように手で両目を覆っていた。
嫌味に嫌味を返してしまった。
そんなつもりも無かったのに引き合いに兄の名前を出されたからだろう、毎度の事とはいえ、こればっかりは仕方無い。
かれこれ長い事兄と比較されてきてるのだ、たまには言い返してみたくもなる。
「では失礼します」
老人貴族はワナワナと身体を震わせ、皺だらけの痩けた顔を真っ赤にしている。怒り心頭といった様子だ。
更なる嫌味が飛んでくる前にさっさと退散しようとその場を立ち去った自分を、直ぐにユウが低い声で呼び止める。
「アラン様、先程申し上げた筈ですよ?全くどうするおつもりですか。フジモリ様は一を返せば百を返してくるお方だとおわかりでしょう」
「別にいいさ、そしたら俺が百を聞き流せばいいだけだ」
「またそんな事を。それは聞き流せる者が言う台詞です」
これは今にもユウの小言が始まりそうだと察し、くるりと方向転換をすると大広間を出るべく颯爽とフロアを横切った。
「アラン様、どちらへ……?!」
「心配しなくても平気だって。少し外の空気を吸いに行くだけだから」
ユウの小言の方が厄介だ、これが結構ぐちぐちと続く。
笑顔で手を振る自分にまたもやユウが「はぁ」と溜息を吐くのを尻目に、大広間を後にしたなら中庭目掛けて廊下を歩いた。
「あー…疲れた」
着いた先、中庭を一望出来るベンチに腰を下ろした途端に自然と口から漏れた独り言。
それを独り言にはさせないといった笑い声が背後から突然「くすくす」と聞こえ、驚いてバッと後ろを振り返った。
「やぁね、そんなおっきな愚痴を零して。溜息一つ落とすと幸せが一つ逃げていくって知らないの?」
振り返った先、びっくりする程近い所に無邪気な笑顔があって更にびっくりした。
ベンチの背凭れの上で腕を組み、自分を上目に覗き込む大きな瞳。
雲の掛かる夜空から辛うじて降り注ぐ月明かりに、彼女のプラチナブロンドがちらりと煌めいている。
「何だ、キャシーか。驚かせるなよ、びっくりしただろ?」
「あら、幽霊だとでも思った?」
「幽霊だろうが人間だろうが、いきなり後ろから現れたんじゃ誰だって驚くって……」
「後から来たのはそっちよ?私の方が先にここにいたんだから」
そう言いながら人差し指でつんと頬を小突いてくるキャサリンの手を、照れ隠しから「止めろよ」と払い退ける。
彼女は可笑しそうに笑みを零しながら自分の隣に腰掛けると、再びひょこっと顔を下から覗き込んできた。
「アラン君、今日はグレン様はいらっしゃらないの?」
「今頃飛行機ん中。ドレスヴァンに向かってる」
「あら、じゃあお兄様と一緒ね。私も今夜は一人で来たの」
「一人って事は無いだろ?誰かお付きがいるだろって」
「それでもお兄様が一緒でなければ一人な気分よ。パーティーともなればいつもお兄様が皆から私を遠ざけるんだもの。本当、ちょっとしたSPよりもガードが厳しいんだから」
「まぁ……過保護ではあるよな、キース様も」
ぷんっとむくれるキャサリンだが、兄の執拗な過保護の意味を彼女はわかっているのか、いないのか。
誰しもが一目で目も心も奪われる美貌を自覚してる様子はいつだって微塵も無い。
病弱だったのは知っている。
だが彼女を心配する今の兄の思惑は健康面でのそれじゃない、女性として悪い虫が集らぬようにと懸念する故だ。
―――自分はそれを重々承知している。
「お陰でせっかくアラン君と会えたと思ってもお話も出来ないんだもの。でも今日はお兄様がいないわ、沢山お喋りが出来るわね!」
「お喋りって、あのな……。男は女みたいにそうべらべら話す事なんて何も……」
「そうそ、聞いて?この間うちのリュークったらね!」
「……お喋りっていうか、聞き役になれって事だろ?」
ぼんやりとした月明かり、水飛沫をあげては水面を叩き付け、循環してまた水飛沫を上げる噴水の水音をBGMに、はしゃぐ彼女の声を聞く。
隣で、自分だけが。
「ふふっ、そしたらリュークってばすっごい顔して驚いちゃって!」
「相変わらず悪戯好きだな、キャシーは……」
「だって可笑しいんだもの!それでね、その後……」
霧雨の上がった中庭は湿り気を強く含み、角度を変える度に城内から漏れた照明に反射して芝生が輝いた。
一つのベンチに隣合って座る自分達以外、誰の姿も無い。
夜風に乗り、僅かに届く軽快なダンスのリズムと、茂みの向こうで飛び立つ水鳥の羽音。
そして彼女の楽し気な声、それだけ。
そう、彼女と自分の二人だけだ。
「そんな悪戯ばっかしてると、いつかしっぺ返しに合うぞ?」
「うーん、それは困るわ。私、悪戯するのは好きでもされるのって苦手なのよね」
「それ……すげぇ身勝手……」
「失礼ね、身勝手だなんて。何も悪戯されたからって皆が皆嫌な思いになる訳じゃないわよ?」
「悪戯されて嬉しい奴なんているか?」
「それをアラン君が言えるのかしら?」
「二人だけ」っていつもそうだ。
それを押したらどうなるのか自分でも予測出来ないスイッチが、かちりと入る音が頭の中で聞こえてくる。
「悪戯……嫌い?」
身体の中で何かが弾かれる。
弾かれただけならまだ手に負えるからと、そこで躊躇すればいいものを自ら知りたいと望んで更にスイッチを入れてしまうんだ。
「……や、嫌いじゃない」
彼女が白く細い首を伸ばす。
それに合わせて上体を彼女へと向けると前屈みに傾けた。
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