Novelette 幕末
□前川邸還魂記 一、花曇桜鬼(はなぐもりはなおに)
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千鶴が屯所に連れて来られて数カ月。
明けて文久四年睦月十七歳の愛妻将軍家茂が二度目の上洛を果たしていた。
安政の大獄で隠居謹慎の処分を受けていた一橋派が朝廷の圧力で復権、徳川慶喜が年若な上ひ弱な将軍を補佐する為将軍後見職に就いたのが二年前。
それを辞任して――廃止して――禁裏御守衛総督に就任、同時に摂海防禦指揮も兼任し始めたのが弥生の末。
いよいよ大坂湾も列強への警戒を強め、油断のならぬ事態へ突入なのかと、そろりと時勢も向きを変えていった。
その事と関連なぞ見出そうとしてもあまり意義はないかもしれないが、如月、まぁいろいろあったからと年号は元治と改められていた。
根拠といっては古代中国の予言の書とも呼ばれる讖緯(しんい)に基づくというぐらい。
つまり効き目と言ってはおまじない以上でも以下でもないのだがそれでも、うららと春が京の街に訪れていた。
壬生の屯所は列強に勝るとも劣らぬ不遜な敵に日々脅(おびや)かされていた。
野良猫は人数分しかない食材を狙うべし、と猫又から采配でも下っているのだろうか。
魚を略奪、籠の食材を蹴り倒したりなんだりで毎度経済被害は結構大きい。
副長土方の懸命な説得によってその黄粉色の猫は屯所から退去した。
ところが今日は三毛、次は斑(まだら)、虎縞が、八割れが黒が、或いは四五匹いっぺんにという具合に猫の方が申し合わせたかのように入れ替わり立ち代り出入りするようになっていく。
侵入は台所に留まらず、干した布団の上に粗相をしたり、逃げる途中で障子に大穴を空けたり、刀掛けをなぎ倒したりと
――何故か副長土方が愛刀和泉守兼定の横たわるそれが頻繁に狙われた――
無礼だの敵対行動だのと呼ぶには所帯染みた悪ジャレで隊士らを地味にいたぶるのに精を出す。
すると土方はその小さめの獣ではなく隊士どもを叱責するので御蔭を被って鬱憤が溜まっていく。
「何だか皆さん、物憂い御様子ですね」
事情は分かりきっていたが、笑い飛ばして欲しくて千鶴は言ってみる。
庭先で下帯を干していた新八は闖入者達にすぐ思い当たりながら
「ま、しかし」
と下帯の皺を引っ張る。
多少擦り切れていたから新八の腕力で竿がしなる程引っ張っては裂けてしまうのではと千鶴は気がかりだ。
「花曇りとか鳥曇りとか…渡り鳥が一気に北へ向かうと空が曇って見えるかららしーが、そうでなくても気分が澱むもんだ」
庭の隅の若い桜も申し訳に薄紅の花をつけている。
恐らく浪士組による借り上げが決定した時期に、身の危険を感じ移転するハメになった前川家の住人が名残に植えて行ったのだろう。
浪士達がこの若木に気づいたときは根を覆う土はまだ柔らかだった。
彼等が住み慣れた我が家をどんな思いで空け渡したか新八が何らかの感傷をもって想像したとは考えにくいが。
二人が何気なく目を向けると透かす程の雲が陽をすっと遮った。
泡のように花がこぼれる。
「桜の若木ってぇのは何株か並べてねぇと駄目んなっちまうらしいが、逞しく咲いてやがる」
土方がいつの間にか縁側にいた。
よーするに。
障子の向こうで昼寝をしていた総司が目を醒す。
土方さんったら俳諧人らしートコ見せたくてしょーがないんだよね。
歌の解釈とか聞かせちゃったりさ。
当たらずとも遠からず、土方は『今昔物語』巻第二十七を語り始める。
「丁度今頃京極殿の南面が満開だったのを中宮彰子が御簾の中から見ているときだった。
〈こぼれて匂ふ花桜かな〉と神々しい声が詠んだもんだから仰天しちまって慌てて宇治の関白に問い合わせた。
答えによると、それは桜鬼(はなおに)って霊があまりの花影の風情によせて詠んだんだろって話がある。」
「へぇ〜、またまた風流な鬼がいたもんだな。」
新八は何度か聞いていた筈なのだがすっかり忘れていたから初耳のように感心する。
実際この歌は読み人知らずとして拾遺集に收められている。
「なんだっけなぁ上の句は、なぁ斎藤」
前回土方が語ったのを斎藤は憶えていた。
「浅みどり野辺の霞はつつめども」
一君、ホント土方さん好きだよね、あのときだって下の句しか言ってなかったのに、あれから調べてたんだ。
呆れつつ寝返りを打つ総司。
「それだ斎藤。
そんな風雅を解する鬼が居着くんなら野良猫なんぞよりうんとマシだぜ」
ウソばっかり。
それならそれでまた「霊のクセして昼間っから出てきてんじゃねー」とか「鬱陶ぉーしーから失せろ」とかがなり立てるに決まってるじゃない。
一輪咲いても梅は梅、一厘(りん)借りても金は金〜
斎藤は何も応えなかったが全く共感しているに違いなかった。
花影という詞の風情を、特別深い思い入れが土方にあるのかもしれないと斎藤は丁寧に弄(ひねく)り回しているんだろうと総司は思う。
斎藤の方はほんの一瞬それに近い心持ちではあったのだ。
そのとき桜の枝がまさにゆぅらりと息でも吐(つ)くように上下した。
花の影もうやうや揺らぐ。
淡く陰になった枝下の空気がふと歪んだ気がする。
薄墨色の流れがゆるゆると軽く渦巻いて何やら頭髪のような艶を帯びたかと思うと紐が巻きついて曲げに結った…
と錯覚させたのはちらほら落ちた花弁が風で旋回したせいであろうと斎藤は冷静である。
のんびり翻る糊の萎えた袴の裾が見えるのは最近尊王浪士どもの動きが見えにくく市中警護に神経を使い過ぎているせいだろうと土方は思う。
その隣りで、日に灼(や)けたボロっちい着物の白い絣が浮き上がるのは最近貯まってきた呑みのツケを支払うアテがないせいだと新八は目をそらして頭を掻く。
若干蒼くなってぼやぼやとした面相を認めていたのは千鶴であった。
下から四尺ぐらいの高さに浮かんでいる…
十を過ぎたぐらい…少年だろうか。