【斉木楠雄のΨ難 1】
□【初恋ジレンマ】
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海はいい。深い水底まで来てしまえば、煩わしい "声" たちは一切何も聞こえなくなるから。
ちょっと海賊っぽい骸骨や財宝がそこいらに散らばっていたって、地上の喧騒に比べたら気にする程のことでもない。
楠雄は放課後、まっすぐ自宅には帰らずに海底に寝そべって束の間の静けさを味わっていた。
『くーちゃん かえろ!』
しかし。雑念を追い払おうとしても、先程帰り際にかけられた幼なじみの少女の声がふとした瞬間に繰り返し甦る。
そうしてそれを聞いた同級生たちが、ひそひそ話をしながら好奇や嫉妬の目を自分たちに向けていたことも。
鈍感な名前はまったく気にもかけていないが、彼女は昔から人に好かれる人気者だった。男女を問わずに好かれる傾向にあるから、友だちもかなり多い方だ。
一方で楠雄はと言えば、小学生となったいまでは世の中の色々を知り尽くし、すっかり無口で何事にも無関心な少年になってしまっていた。当然友だちと呼べる友だちもいないし、本人も別にそれでいいと思っている。
そんな普段は一匹狼主義な楠雄にとっても、名前の存在というのはやはり特別なものだった。
親友同士の両親の影響で、生まれる前から一緒にいた。家族同然に過ごしてきた幼なじみが近くにいる生活は、楠雄にとってはごく自然なことだった。
何よりも彼女は超能力のことを知っていて、それすらも難なく受け入れてくれている。
名前は楠雄が超能力者のまま───ありのままの自分でいられる、数少ない相手だった。
しかし。小学校生活も中盤になり男子・女子という分けられ方をよくされるようになって、それまでは当たり前だったことが少しずつそうではなくなってきていることが楠雄の心に暗い影を差す。
どうしていつまでも "同じ" ではいられないのだろう。
そんなことは無理だとわかっていて、彼は考える。
もしも僕が女だったら。もしも名前が男だったら。
二人同じ性別で生まれて来ていたら、こんなことにいちいち悩まなくてもよかったのか。ただ一緒に帰るというだけの行為は、誰の目にも自然なものに映るのだろうか。
[いっそのこと、僕が女にでもなってしまおうか]
性別の変化はまだやったことがないが、人間以外の他の生き物に変化出来るのならそれもやってやれないことはない気がする。
親からもらった身体を本格改造してしまうのはよくないとわかっていて、しかしそんな突拍子もないことを考えてしまうくらいには、自分は思い詰めてしまっているのだなと楠雄は自嘲した。
名前に帰ろうと言われ、一人になりたいという伝家の宝刀を今日も使ってしまった。
自分がそう言ってしまえば彼女が強く誘ってこないことを、彼はもう経験上知っていたから。
[・・・面倒くさい、]
煩わしいものから逃れる為に来た海底でも、考えるのはもうずっとこんなことばかり。
ただ一緒にいるだけなのに、その為にはわかりやすい理由が必要なのだ。
けれどきっとからかわれたってどうしたって、名前は変わらない。そんなことで彼女のペースは崩されないことも知っている。
それでも楠雄は、自分のせいで彼女が好奇にさらされる羽目になるのはたまらなく嫌だった。
何よりこのままこれからもずっと一緒なんてことも、ありえないと思う。
いつか必ず彼女にも好きな男が出来て、自分の前からいなくなる時がやって来る。確実に。
それまでに僕に出来ることはといえば、その時がいざ来たら祝福の言葉を贈るのだという覚悟を日々積み重ねていくことだけだ。
───もしも。
もしもこんな力がなかったら、僕も人並みに恋をして、結婚をして。
そんな自分の人生を、当たり前のように思い描いたりしたのだろうか。
[・・・想像もつかないな、]
そこまで思って、楠雄は自らの推測を否定する。
だって想像もつかない。名前以外を好きになる自分。
例えばそんな自分がいたとしても、それはもう既に自分ではない他人のことのように思えて仕方がなくなるのだ。
いまの自分を形造っているのは、名前の存在があってこそのものだから。
名前がいて、彼女を好きになって。
たった一人を大切だと思う気持ちを、初めて知った。
離れたくない。離れたい。
そんな相反する気持ちが、同時に楠雄の内側に存在している。
そして名前の為を思うなら、こうやって少しずつでも距離を作っていくべきなのだろう。
なのに。苦しい。
訳知り顔でどうってことない風を装ったって、こんなにも。
『───くーちゃんっ!』
あの声で名前を呼んでほしい。あの笑顔で笑いかけてほしい。
転びそうになるくらいに夢中でまっすぐに駆け寄ってきてほしい。
こんな風に、いまこの瞬間にも。
名前に会いたくて会いたくてたまらなくなっている自分が───楠雄のなかに、確かに存在していた。