【斉木楠雄のΨ難 1】
□【Ψ [賽] は投げられた】
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「はー・・なるほどねえ。なーに?そんなにかわいい子だったの?」
「・・・うん」
一向に進む気のしない箸を、名前はとっくに放棄して箸置きへと戻していた。
そして母に事のあらましを説明しつつも沈む彼女の心に浮かんでいたのは、自分と幼なじみの少年の間にあった過去のエピソードで。
昨日からずっと頭を離れてくれないのは、昼間に偶然目にしてしまった光景だった。
そう、楠雄が街中をとてもとてもとてもとてもとてもとても (以下略) 可愛らしい女の子と、親しげに並んで歩いていたということ。
(かわいい子だったな)
再びその光景を思い返すと、改めてその時に見た少女─── "照橋さん" の姿が、名前の沈んだ色の目に浮かぶ。
白いブラウスは清潔感があって、長い黒髪がさらさらな。
男なら誰だって声をかけたくなってしまうような魅力的な少女は、更にその魅力を増すような笑顔で幼なじみに話しかけていた。
「くーちゃんと同じPK学園に通ってる友だちに訊いてみたら、照橋さんって子じゃないかって言ってた。すっっっっっっごくかわいくて、ここらへんの学校じゃ知らない人がいないくらいに有名な子なんだって。私の学校の子も知ってた」
「知らない人がいないくらい有名なのにあんたは知らなかったの?」
「う・・・だ、だってそういう話、興味ないし、」
「ま、あんたらしいっちゃあんたらしいわねえ」
変わらない娘のマイペースさに、母は浅くため息をついて肩を竦めた。
しかしそれでも、夫と共に日本を離れて早一年以上の月日が経過している。
我が娘や隣家の少年を取り巻く環境は、どうやらここにきて突然の急展開を迎えていたようだ。
ひとしきりの話を聞き終えると、名前の母はごにょごにょと言葉を濁して唇を尖らせている愛娘を観察しながらなるほどねと一人思案する。
「珍しいんじゃない?」
「え?」
「名前はそれ、友だちに聞いて調べたんでしょ?」
「う、うん?」
「いつものあんたなら、思ったことはすぐに楠雄本人に直接訊くじゃないの」
「 ! 」
「どうして楠雄に直接面と向かってその子のことを訊かなかったの?」
「え・・・っ、き、訊いたよ?く、くーちゃん女の子と一緒に歩いてたよねって!」
「そしたら?」
「えっ」
「そしたら楠雄は何だって?」
「え、え、べ、別に何も、」
常ならば相手の目をまっすぐに見て話す名前なのに、今日はらしくもなく視線はウロウロしていて語尾もなんとも切れが悪い。
そうして困ったような表情を浮かべたまま、彼女はうつむいて黙り込んでしまう。
確かに本人の言う通り、名前は昨日のうちにその話題を楠雄に持ちかけている。だから彼が別に何も言っていなかったという答えだって、確かにまんまその通りなのだ。
まあ正しくは、それを聞くよりも前に名前自身がそれどころではなくなってしまったというのが、この場合はきちんとした説明になるのだが。
そう。楠雄に照橋さんの話を持ちかけたまではよかったが、結局あのままうやむやな状態で夕飯の手伝いをした名前はあのあと散々だった。
お皿を割ってしまったり、味噌汁にキュウリを入れてしまったり。
幸いなことにケガをするまでには至らなかったが、あのままではそれも時間の問題だった。普段ならばありえない失態を繰り返す名前を見兼ねた久留美の判断で、名前は昨日そのままキッチンから退却することになってしまったのだった。
その後はもう、楠雄の顔はまともに見ることも出来なかった。
今日だって一緒にお母さんを空港まで迎えに行ってくれたら、豪華懐石料理のフルコースを堪能出来るよって───誘うつもりだったのに。
あの距離ではいつも通りに自分の思考は全然筒抜けだったと思うが、それでも楠雄は結局何も言っては来なかった。
「そもそもあんたは、楠雄がそのすっっっっっごくかわいい女の子と一緒に歩いてたからって、何をそんなに気に病んでいるワケ?」
「 ! 」
突然自らに訪れたその謎の症状を、名前はまったく理解出来ずに苦しんでいた。
根本的であるが至極核心的な部分をついた母の問いかけに、名前の心は大きく揺れる。
なんで?
そう、なんで。
くーちゃんが女の子と楽しそうに歩いていたからって、別に私がどうこう言う話じゃない。
でも気になる。いま、こんなに。
あんなにかわいい子に天使のような笑顔で話しかけられて、嬉しくない男の子なんているんだろうか。
[僕には理科室の人体模型と付き合う趣味はない]
[僕は一生誰とも恋愛をすることはないだろう]
楠雄は無表情のままで幼い頃にそう言ってはいたが、果たしてそれは現在でもそうなのだろうか?
もし───そう、もしも。
見た目も内蔵も心もとびきりに綺麗な完璧美少女が目の前に現れたら。楠雄だって、その子に恋をするんじゃないのだろうか。
何よりかつてそうなればいいと望みそれを彼本人に告げたのは、他の誰でもなく自分自身だった。
そして高校に入ってから、楠雄は確かに変わったように名前は思うのだ。
友だちと放課後に寄り道をしたり、
その友だちが家に遊びに来たり。
普通の人なら当たり前のそれらのことが、楠雄にとってはとても特別なことだった。
それを報告してくる彼の母親が、嬉しさのあまり感動の涙を流すくらいには。
私だって嬉しかった。
くーちゃんのことを相棒だって言ってくれる燃堂さん。
海藤くんの為に、あのくーちゃんがコーヒーゼリーを食べるのを後回しにしていたこともあった。
くーちゃんは普段直接 "声" に出して話すことはめったにないから、中学までは無口で気味の悪い変なヤツって言われたりして一緒にいた私もからかわれたことがあったけれど。
そうくーちゃんは確かに、無愛想でぶっきらぼうで、一見冷たく感じられるかもしれないけど。でもとっても優しいんだ。
よくしゃべるし、ツッコミにだってすごいキレがあって。かなり毒舌だしめちゃくちゃ面倒臭がりだし、コーヒーゼリー第一主義で。
その大好きなコーヒーゼリーを食べてる時は、本当にしあわせそうに頬を緩めるんだから。
私はうれしかったんだ。
くーちゃんと、きちんと友だちとして接してくれる人たちがいてくれること。
"斉木くんてすごいよね" って。
"つよくてかっこいい" って言ってくれた "彼" みたいに、
くーちゃんのいいところを知ってくれる人が他にもたくさんいてくれたことが、本当にうれしかった。
例えそれが、自分の知らない場所での出来事だとしても。
だって。
だって楠雄は、私にとって───・・
「あ──・・それでね、名前。あんたがだいぶ悩んでるところに追い打ちをかけるようで悪いんだけど、」
「 ? 」
やがて名前の思考があるひとつの答えを導き出そうとした時だった。
母はそう語る通りに、若干の気まずさを表情と口調に浮かべながら切り出して来る。
「あのね、今回お母さんが帰国したのはこの件があってのことなんだけど。まえに少しだけ話した、もしかしたら家をひとに貸すことになるかもって話覚えてる? それなんか急に話が進んじゃって。やっぱりお父さんの後輩の入達くんに、何年間か家を貸すことになりそうだから、」
「へ?」
「その間は申し訳ないんだけど・・・あんたは "お隣" に厄介になることになると思うから、」
"───もうなんか、ごめんね?"
母があえて言葉を濁したその "お隣" が、いまさら左隣のお隣さん家じゃないことくらいはもうとっくにわかっている。
そして昨日の昼までの自分なら、それくらい二つ返事で確実にOKを出せたのに。
どうしようと戸惑う自らの心の変化に、名前はもはや気付かないわけにはいかなかった。
ψ【初恋のΨ難】
『賽は投げられた』
2014.01.19
2017.05.11 加筆修正