【斉木楠雄のΨ難 1】
□【 Ψドストーリー】
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Ψ【それはまだ、恋情も知らない頃のお話】
※二人が幼稚園に通い始めたばかりの頃のお話です。
「くーちゃん!」
「くーちゃんあーそーぼっ!」
「くーちゃん!」
あの頃。名前と僕。まだお互いの世界に、お互いしかいなかった、頃。
僕は知らなかった。
あの頃の僕は、名前がそばにいること。それが自分にとってはごく当たり前のことなのだと思っていた。
そう。それは当たり前のことではないと気付いたから言えることであって、だから当時の僕は、それが当たり前なのだと思うことすら思わないくらい、なにひとつとして、その関係性のあり方を疑うことがなかった。それくらい僕は名前に対して傲慢で、勘違いをしまくったバカな子供だったのだ。
何せとにかくあの頃の名前ときたら、僕に、僕だけが持つ超能力に、すっかりと夢中だったから。
積木を宙に浮かせたり、
瞬間移動でいろんな場所に行ったり。
花火を夜空の真上から一緒に観た時なんて、そりゃあもうはしゃぎにはしゃぎまくっていた。
そして僕にとっても、家族以外で超能力を見せびらかしてもいいと許された相手である名前というのは、当時の僕のなかで燻る、覚えたての芸を披露したがる幼稚な承認欲求めいた感情を満たすのに、何とも身近で最適な存在だったんだ。
「ナマエちゃん!あっちでお砂あそびしよーよ!」
「だめー!ナマエちゃんはわたしとかくれんぼするの!」
「ちがうよ!ボクとお絵かきするんだ!」
だから。
揃って幼稚園に通うことになり、初めて世界が拡がって、僕ら以外の人間が僕らだけだったはずの世界に侵入ってきた時。
僕はまるで、後頭部をハンマーで殴り付けられたかのような衝撃を味わった。
僕と名前。
名前と僕。
生まれる前からそばにいて、ずっと一緒だった。
どんくさくて、うっかり者で、単純思考のこの存在は、出自の都合上仕方なく僕が面倒をみる羽目になって、面倒をかけられて、嫌々ながらも一緒にいるしかなかったから一緒にいたはずだったのに。
ごくごく平々凡々な人間なのだと思っていた名前。だけどそれは超能力者である僕と、当時から世間ではすっかり天才として認知されていた兄に比べたら、という話で。むしろそんな僕らと一緒に育った影響もあって、名前は同年代の子供たちと比べても随分としっかりした子供に成長していた。僕はその事実に一切気が付かなかった。その時まで、まったく。
名前は僕の超能力を怖がることもなく、超能力者の存在を認めてくれた。父や母や兄のように、血の繋がった家族でもないのに。
そんな稀有な人間である名前の世界の広く大きな受け皿は、誰かの存在を拒むことはない。そして生来人懐こく人好きのする彼女の人柄に、惹かれない子供などそういなかった。幼稚園に通い始めた数日で既に、名前はたくさんの友達に囲まれていた。
僕らと同年代の幼い子供たちに囲まれ、それらの思考の渦のなかに身を置いてみると、嫌でも気が付く。名前との出会いはまるで奇跡のような出来事だったのだということを。何とも愚かなことに、僕はその時になってようやく初めて思い知ったのだ。
昨日までの毎日、おでことおでこが触れ合うくらいの距離でいつも名前は笑っていた。
この、まるで神が僕のためにあつらえ与えてくれたのかとさえ錯覚していた存在が。
傲慢にも、まるで自分の所有物かのように思っていたこの存在が。
しかし髪の毛一本から爪の先まで、まったくもって何ひとつとして自分の専有物ではないのだということを、僕はこの時になって、ようやく初めて思い知った。思い知らされた。
この日まで、僕はよくある物語の勘違いをした王様のように、何も気が付いてはいなかった。
「名前・・・」
ぽつり。声に出して、名前を呼ぶ。
幼稚園ではそこいら中に子供たちのはしゃぐ声が響いていて、僕のそんな蚊の鳴くようなつぶやきは、当然名前には聴こえない。届かない。
僕以外の人間とはしゃぐ名前。
僕以外の人間に笑顔を向ける名前。
知らない、知らない。
そんな名前を、僕は知らない。
[・・・ああ、別にいいじゃないか]
名前は昔から僕と公園に遊びに行っていた影響か、絵を描くよりもかくれんぼよりも、砂遊びが一番好きだ。そうしていつものように大好きな砂遊びに夢中になった名前は、頬に砂がついても気付いていない。これもいつものこと。すると、そばにいた男児が本人よりも先にそれに気が付いたようで、名前の頬にこっそり手をのばそうとしていた。
その一連の出来事を、離れた場所からまるで映画かドラマのスローモーションのように視界の端に捉えながら。
これは僕の望んでいた展開のはずだ。
冷えた心でそう思う。
これでもう、僕はお役御免になる。すぐにはそうならないかもしれなくても、名前の関心が僕以外に向いて、僕の歩く後ろをトコトコくっついてきては転ぶんじゃないかとハラハラさせられることが、なくなる。
僕の見せる超能力にバカみたいに口をポッカリあけて魅入っていたかと思ったら、次の瞬間には花がひらいたような笑顔で喜ぶ、あの空っぽのなかが満たされるような感覚も。全部。なくなる。
これまでずっと、その頬についた砂を払うのはいつも僕だった。
そうだ、ようやく。
ようやく僕は、あの煩わしかった日々から解放されるんだ。
・・・なのに。
そう思った瞬間せいせいするはずだった僕は、僕の世界が音と色を失いそうになったのを、確かに感じた。
[やめろ、それに触るな]
[それは僕のだ]
途方もない闇。
真っ暗で。
それまでの人生で感じていたはずの孤独なんて呼んでいたものは鼻で嗤って裸足で逃げ出してしまうくらいの、
足もとからすべてが崩れ落ちていってしまうような。
そんなのは要らない。
要らないと思う。
そんな世界ならもう要らない。
本当にそう思った。
そう思ったその、瞬間。
(───くーちゃんっ!!)
聴こえたのは声。
何も聴こえなくなった、見えなくなったはずの世界に。
(くーちゃんどうしたのっ?!おなかいたいの?!うんち?!だいじょおぶ・・・?!)
それは、いまにも切れてしまいそうな程に張り詰めた緊張の糸の上ですら、呑気にスキップでもかましそうないつものヤツ。
[ナマエ・・・、]
強引に引き戻される。引き戻された世界は、だけどいつもと違ってぼやけていて何も見えなかった。
心配そうに僕を覗き込んでくる名前の顔さえも。僕にはよく見えなかった。
[───・・あ?]
その段になって、ようやく僕は気が付いた。ぽたぽたとあとからあとから頬を伝うそれが、自分の視界をぐらぐらに揺らしていたことを。
そう。僕は泣いていたのだ。我知らず。
泣いたことなんてなかったから、涙の流し方なんて知らない。なんでいまこんなものがこの目から溢れてしまうのか。なんで止まらないのか。流れている理由も流し方もわからないのだから、止め方なんか当然のようにわからなかった。
(くーちゃんだいじょうぶ?!)
・・・バカナマエ。
人前ではちゃんと声に出して言えって母さんたちに散々言われただろ。練習だってたくさんしたのに。そんな心の声で問いかけられたって、まわりの人間にはわからない。僕にしか伝わらない。超能力者にしか。冷静にそうは思っても、けれどそれとは裏腹に、そんなコイツの愚行をこんなにもうれしいと心が跳ねているのはだから一体なぜなんだろう。
(くーちゃんなんでないてるの・・!?おなかいたいのっ?)
そんなのは僕が知りたいよ。
そして。僕は本当に超能力者だけど、たまに名前もそれに似た力を持っているんじゃないかと思う瞬間が、僕にはあって。
だって、コイツはいつだって。メリット以上にデメリットの多い超能力によって疲弊し磨り減ってしまった僕の心が、僕の内側に巣食っているであろう真っ黒な自分の声に耳を傾け身を委ねてしまいそうになると、
決まってこんな風に能天気な声をかけてくるんだ。
こんな喧騒の中、誰ひとり僕みたいな地味な存在には関心を向けてなどいない。何より誰にも構われたくなくて、僕自身で気配を消していた。なのに、気が付くんだな、おまえは。いつも。
とはいえ普段脳内お花畑な名前でさえ、初めて見たであろう僕の涙には珍しくも血相を変えていた。僕のそばであわてふためいてる名前を見ていて、無表情のまま、なのに涙は変わらず僕の目からぼとぼとと溢れる。
さっきまで名前の関心を引くことに夢中だった連中は、離れた場所でみんなポカンとした顔で僕らを見ていた。
ザマーミロ。油断したことで掠め取られてしまったおもちゃを取り返したみたいな、子供じみたくだらない優越感。でも涙と一緒に、沸き上がるこの感情は止まらない。
僕と名前には、おまえらの知らない歴史がある。それは地球や人類の歴史に比べたら紙よりも薄っぺらい、ないに等しいものだけれども。だけどその紙よりも薄っぺらい歴史こそが、地球や人類の歴史をいまも無事につなげていることは確かだと思った。きっとそのうち月だって爆れるだろう超能力者が、人間に失望してもなおその滅亡を望まないのは、家族や、少なからずいる心優しい人たち───そして、名前がいるからに他ならなかった。そんなことに、僕はいまさら気が付いてしまった。
失くしても構わないと思っていたものをいざ本当に手離す局面になって、それを失ってしまったあとに自分が喪失するものの、圧倒的なまでの大きさを思い知る。
でも反面、いつまでもこのままではいられないことも知ってしまった。
もう僕らは昨日までの僕らじゃない。
今日から明日へと続いていくこれからの未来、いつか僕は、本当の意味で名前を手離さなければならない日が来る。そう必ず、それは。
そして実際問題、自分のものだと思っていたものが自分のものではなかったと気が付いた時。
ひとはどう行動すればいいんだろう?どうすることが正解なのだろう?
これがコーヒーゼリーなら無理矢理にでも口の中に頬張って、ゴクリと一度嚥下すればいい。あの深い味わいが喉を通り、胃におさまってしまえばあとはこちらのものなのだ。
だけど名前はコーヒーゼリーじゃない。当然のことながら。
(くーちゃん・・?)
[・・・・・・・・・・]
壊れてしまった蛇口から流れ出す水のように涙を流したままでずっと黙り込んでいる僕を、どんぐりの瞳が覗き込んでいる。
ああ、こんなに近くにいるのに。
手をのばせば容易く触れられるのに。
[砂、ついてるぞ]
( ! え、あっホントだ!ありがとうっ!)
[ ! ]
えへへ、と。
まだついたままだった頬の砂を拭ってやった僕の指先を見て、名前は照れたように笑う。
それは昨日までのコイツと何ら変わりのない笑顔。
そして、泣きっぱなしでもそのツッコミが普段通りの僕であることに、至極安堵した様子の。
勝手に "変わってしまった認定" をしていた僕の方も、それを見て涙がピタリと止まる。たったそれだけ。そんなことで壊れた蛇口は簡単に直ってしまうのだから、なんて現金なもんだと我ながら驚いた。
だけど自分の指先についた砂を見て、それがまだ名前の頬についたままだったことが、こんなにうれしい。
(くーちゃんおなかいたいのなおってよかったね!)
[・・・そうだな、]
でも本当に思ったんだ。
こうしてそばにいることは当たり前じゃない。こんな風に僕にばかり構っていたら、いつか名前は後ろ指をさされてしまうことになるだろう。だからやっぱり明日からは距離を置かないといけない。単純なようで聡いコイツに気取られたりしないように。少しずつ、少しずつ。
そうしてやっぱり、いつかは手離さなければいけない日が来る。
理屈ではそうとわかっている。それが名前にとって、いちばんのしあわせなんだと。
・・・だけど。
だけどいまはまだ、もう少しだけ。
それが自分勝手な独占欲であり我儘だと頭ではわかっていても。まだ───それでもまだ僕は、この存在を手離すことが、出来ないんだ。
突然身の内に沸き上がったこの訳のわからない感情が、俗に言う恋とか愛とか。
そんな風な名前で呼ばれる感情なのだということに気が付くには、この時の僕はまだ、あまりに幼かった。
2017.10.07