お話。

□月とコーヒー。
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いつもその姿を 瞳で追って、
その指にふれたいと思っていた。

その仕草を、その横顔を、苦しくなるほど 焦がれて見ていた。

一緒に同じごはんを食べて、
手をつないでどこかへ出かけて、
手をつないで、となりで眠る。

ゆるやかに、日々を ふたりで。

そんなふうに 過ごせるだけで、
どんなに 幸福だろうと思った。

はじめは見ているだけで、よかった。

それでも、頬に指さきがふれたとき、
しあわせで、涙がこぼれた。
このまま息が止まってもかまわないと、
本気で思った。

それでも 一緒にいられない。
その理由は、銀色のゆびわ ひとつで充分だ。


君の指が、わたしの髪にふれてくれるようになっても、
報われることなんて、一度もなかった。

どんなにやさしいことばを聴いても、
甘くて溺れそうなキスをしても、
わたしは、彼の帰るおうちにはなれない。

彼が会社から帰ってくるのを待って、
ごはんを作って、キスをして、手をつないで出かけても、
それは、おままごとでしかないのだ。

ほしくて、ほしくて、やっとふれられたのに、
いつもいつも 何かに追われている気持ちになる。


まっすぐ見ているのに。
たしかに 愛しているのに。
ごめんね。

あのひとが好きな煙草と、
ゆっくりと おとして淹れてくれた
淹れたてのコーヒーの味を知った。

月のみえるベランダで。

あのひとがわたしにふれてくれた
指のかたちを、肩の匂いを思うだけで、
もう わたしは充分なのだと思った。


遠くはなれて、声を忘れて、
もう大好きだった背中が見えなくなっても。

ふたりで飲んだコーヒーのカップに、
お月さまが揺れている。

あの人が どこかで、これを飲んだとき、
わたしのことを ひっそり思いだしてくれたら。

わたしはそれを、幸福と呼べるだろう。





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