悪ノ物語

□ブリオッシュ
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 ――しばらく、記憶がない。

 ただ、気が付いたらボクは血まみれで座り込んでいた。

 あれはなんだろう。
 あれは誰だろう。

 もうすぐここへも火が回る。逃げないといけない。

 けど、なにも考えられない。


「―レン様」

 誰かがボクを呼んだ。
 腕が引かれる。その力によって、ボクは立ち上がっていた。

「―もう撤退しましょう。国の女と楯突く国民は、王女様の命令によって殺しました。
もうじき、ここにも放った火が回るかと…」

「ああ…そうだな…」


 あれは、ボクに笑ってくれた人。

 嬉しかった。ただの人間になれたようで。

 ボクを縛っていた全てのしがらみが、一瞬にほどけたような気がした。

 でももう笑わない。
 あの可憐な声も聞けない。緑の髪も太陽の下で輝かない。

 ボクが殺したから。


「―王女の意志はボクの意思なんだ…」

 血でぬめる手から、ナイフが滑り落ちる。
 無機質で硬質な音が、赤く炙られる暗闇に響いた。

「…なのに、どうして…」

 もう息すらしない。

 この炎に焼かれてなくなるんだ。

 彼女も、ボクの想いも。


「――どうして涙が止まらないんだろう…」

 背後の兵士が、息を吸った気配がした。
 少しの間の後、ボクの肩に暖かい手が乗せられる。


「…行きましょう」

 その体温が、彼女の亡骸をより冷たく見せた。


「―私も、もう限界です…」


 彼の声も、震えていた。


  
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