短編

□レポート用紙に書き綴った恋文
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琥珀色をしたコーヒーの香りが私の鼻孔をくすぐる。
鍋掴みでビーカーを掴みマグカップに中身を移していると、部屋の隅にある書類の山が僅かに動いた。
プリントだけでなく本やレポート用紙、その多諸々が崩れ、そこに埋もれていた真柴教授が顔を出す。

「エイミーちゃん、あたしにも一つ」
「はい」

真柴教授は立ち上がりながらぐっと両手を天に突き上げ伸びをした。
あくびを一つ大きくしてから、よれた白衣のポケットに両手を突っ込み、窓辺に寄りかかってまどろんだような表情をしている。

その端正で整った顔からは想像つかないほど、長い髪はぼさぼさで紙屑などが絡まっていた。
日光にそれが反射し黒い髪が艶やかにきらめいているが、綺麗か汚いかと聞かれたら紙一重でやっぱり汚いと私は答える。
この人を例えるなら血統証付きの野良犬のよ
うな、そんな風貌で。

白衣と首からぶら下げている職員カードがなければ、誰もこの人が教授だとは思わないだろう。

「またそれで作ったのか?」

ビーカーを見て「コーヒーメーカーがあるのになあ」と、ほこりをかぶっている機械をばしばしと叩いている。
私は3歩下がって埃が入らないようカップを庇いながら、しかめ面をした。

「そんなので作ったら食中毒になります」
「洗えばいいじゃないか」
「嫌です。教授がもらってきたものをどうして私が洗わなきゃならないんですか」

はっきりとそう言ってから、澄まし顔でマグカップを真柴教授に手渡す。
このコーヒーメーカーは文化祭で行われたビンゴ大会の景品である。

3等を当てた教授はそのときは大喜びしていたものの、それはそのときだけで結局半年経った今でも新品同様で窓辺に放置してあった。
正直これでコーヒーを飲みたいと思わない。

それに、ビーカーを使うのには私なりのこだわりがあったりする。

「まあいいか。エイミーちゃんがあたしのために入れてくれるんだから嬉しいに越したことはない!」
「なに言ってるんですか。違いますけど」
「まったまたー! いやーあたしはこんな可愛らしい生徒に愛されて幸せだよ」

そう笑いかけられたが、私は無視をした。
空になったビーカーを流しで片づけ出せば、真柴教授は「つれないなあ」と言いながらコーヒーを口元に持って行き、熱そうに舌を出す。

真柴教授は猫舌なのだ。

私は薬品棚の隣の、腰の高さまである黄色味でレトロ感あふれる冷蔵庫から牛乳を取り出した。
先ほどコーヒーをいれたマグカップに牛乳を注ぎ、角砂糖を3つ入れる。
真柴教授はいつもブラックで飲むが、私はこうやって甘くしてやらないと飲めなかった。

「教授、こぼさないでくださいよ」
「はいはーい」

鼻歌混じりに返事をした真柴教授は、いくつかプリントをもって無造作に机に並べた。
がっちりとしてこれまたどこかアンティーク風を思わせる教授専用の赤い椅子に座り、ときおり軋んだ音をさせた。
その音に混じって、コーヒーをすする音がする。

「美味しいですか?」
「もちろん。今日もばっちりおいしーよ」

歯を見せて真柴教授は言った。
真柴教授は恐ろしく、どこか無邪気さも備えて可愛く笑う。
これで今年30歳というのだからあなどれない。
私はいつもその笑顔にやられているし、きっと私の仏頂面からはそれは悟られないだろうが、たまにぼんやりと見入ってしまうときがある。

授業中であったり、研究室であったり、どこかで真柴教授を見かけたとき。
こうしてたまに他の研究生が休みで私と教授が二人きりになると、なんでもないこの風景が私の中で特別なものに変わる。

「エイミーちゃん今日授業は? ないの?」
「ありません」
「じゃー休みか。けど、あたしにわざわざ会いに来たと、なるほどね」
「課題をしに来ただけです」
「嘘だー」
「本当ですが」
「……ほんと可愛い顔してつれないな、あたしは悲しい」
「悲しむも何もこういう性格ですし、顔はただ童顔なだけです」
「そうだな、君は甘いものも好きだもんなあ」
「……童顔って言ったのですが。教授は単に子供っぽいって言いたいだけですよね」
「いやー? だから可愛いんだよねエイミーちゃんは、とあたしは述べたいだけだが」

言葉を無視してさっきまで取り組んでいたレポートに向かった。
真柴教授はそれを気にする様子もなく、薄く笑みを保ったまま資料を読み出す。

私は教授の横顔を一瞬だけ見ると、教授はこっちを向かずとも「なんだー」と声をかけてくる。
虚をつかれたが「いいえなにも」と、いたって冷静な声で返しても教授は全部わかってるかのようにマグカップを口元にもっていった。

私の気も知らずに、この人はただにこにことしてるだけで私の心を揺るがす。
そんな素振りは微塵も見せないけど、そう思いながら私もカフェオレを口に含んだ。


大学1年生の頃、初めて訪れたこの場所は2年前と何も変わっていない。
風邪で真柴教授の講義を欠席した私は、次の日課題を提出しにここへ来た。

あのときも教授は書類やレポートの山に埋もれていたし、やっぱり白衣もよれよれで髪も乱れていたが。

ただ、あのとき「ああ、昨日欠席したのか。ん? もうレポート終わらせたのか! 優秀だなあ君は」と言ってくれた言葉や、「相良詠美くん。うん、エイミーちゃんと呼ぼう」とキラキラした笑顔も。
ご褒美だといって入れてくれたビーカーコーヒー。

コーヒーが飲めなかった私が初めて飲めて、美味しいと思えたあの一杯。
「美味しいだろ?」とのぞき込んできて優しく笑ったあの顔にも。

私はあっけなく、恋をしたのです。
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