短編
□goodbye small world
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「あたしは昔、泥棒だった」と言えば、まだ幼い顔をした彼は「え?」と困り顔をした。
「どうしたんですかいきなり。あ、ていうかまだ飲んじゃ駄目ですよ! 手元がおぼつかなくなったらどうするんですか」
「なめんなよー。あたしが酔っぱらうわけないだろ。これぐらいどうってことないし、それに、時間ならまだあるよ」
時計を指さして、それからグラスに入ったコークハイをまた一口飲む。思いっきり顔をしかめられ、「あーそうですねー」とふてぶてしく言われた。
「……ていうか、泥棒だったんですか?」
「さあ?」
「さあ、って!」
「なんだろうね。そうだったのか、そうじゃないのか。とりあえずお前も飲めば? さあさあ」
未成年と大人の狭間にいる彼に、あたしはウィスキーとコーラをどばどばと注いだ。くりっとした目がそれを一心に見つめている。興味と関心があるのか、今すぐに飲み干したい欲求にかられているようにもみえる。たまらないんだろう。
「早く飲まないと、あたしが飲むよ?」
そう言えば、渋々と言った表情でそれに口をつけた。でも目がちょっと見開いたのをあたしは見逃さなくて、薄く笑った。
「全部飲み干してね」
「ぜ、全部?」
「もちろん。……さて、時間もあるし、泥棒の話でもしようか?」
「え、ほんとに師匠は泥棒だったんですか? 冗談じゃなくて? それともただの御伽話ですか?」
それには答えないで、あたしはウィスキーを足してやった。とろりと、グラスに注がれる。
「嘘か真か、お前には知る由もない昔話をしてあげよう。ちょっと笑えて泣ける、そんな話を」
ニヤリと笑い、あたしはこっそりと付け足した。
「ただし、真に受けて真似したりするなよ」
これから話すことは、5年前のことだ。
*
雨が降っていた。中野のアーケードを早足で駆け、近くの洋服店の屋根の下に入る。かぶっていたフードを外すと、長いながらも跳ねた黒髪が広がった。
目の前に色とりどりの傘が広がっている。服についた水を払い、雨宿りを装いながら人々を物色する。買い物帰りで嬉しそうな顔、隣にいる人に愚痴ったりする人、無表情で歩いている人。それは老人、お母さんと手を繋いだ小さな子供だったり、仕事帰りのおじさんや、学生服を着た女の子たち、様々である。
しかし見るべきところはそこじゃない。
「……獲物発見」
舌で軽く唇を舐めてから、早足に人混みに紛れる。フードを被り直してから一人の中年男性に近づき、上から下まで観察した。身なりはそこそこ、時計は良いものをしているように見える。なにより、でっぷりと太っているその体型がいい。 ポケットからは折り畳まれた財布が一センチほど顔を覗かせていた。
人差し指と中指をスッと伸ばす。財布に触れた。しかしまだ抜かない。周りにバレないよう気をつけながら出来るだけ手元を身体で隠す。おじさんが歩く度に財布がポケットから抜け出そうとし、ついにあたしの手元に残った。素早く懐にしまう。
おじさんは人混みに見えなくなった。きっと取られたことにも気づかず帰宅するのだろう。あたしは踵を向け脇道に抜けた。
壁しかない路地に入る。人が見ていないことを確認し、大きく息を吐き出した。
「やれやれ」と言いながら財布の中身を覗くと、すぐさま心躍った。引き抜いた万札2枚、千円札4枚を束ねる。十分だとにやりと笑い、札束にキスをした。
巾着切り、言い換えればスリを初めてもう長いことになる。仕事を探してもこの時代、不景気続きで将来を保証して雇ってくれるところなどない。週に3回工場で働き、仕事がないときはこうして小銭を稼いで数日間をしのぐ毎日だ。
財布を捨てると、ポケットの中につっこんだ紙幣を握りしめ、またアーケード街に飛び出した。