花ちゃんと小林
□09話、あたしは、ずるい
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ずがんと、頭を打ち抜かれたように痛い。こめかみに手のひらを当てる。頭はシーツに押しつけたままだ。
そろりと瞼を開いて「ああ」と掠れた声が出る。懐かしい夢を見た。出来れば二度と経験したくない、あの日のことだ。それも、ほんのわずかに切り抜かれた、一部分だけど。
「花、起きてる?」
佐藤だ。肩を揺すられて身体を起こせば、ぐらりと頭が傾いた感覚がし、すぐにまた頭痛が走った。ぼすっとシーツにまた顔をうずめる。
「ったー……」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない……気持ち悪いし……」
「だらしがないなー。ほら、起きて起きて」
「ん……、小林は?」
「こばなら朝ご飯作ってるよ」
わずかに頭をあげると、ソファの向かい側にあるキッチンに小林が立っているのが見えた。その背中を数秒見つめ、声をかける。
「おはよう」
「おはよー花ちゃん。うわっ。ひどい顔」
そう可笑しそうに笑い、目玉焼きをお皿の上に乗せた。ちなみに二人分の朝食しか用意されていないのは、私が食べれないからだ。飲んだ次の日に決まったものしか受け付けない、とても面倒な体質のせいである。
「はい、オレンジジュース」
「……ありがと」
小林はそれをちゃんと知っている。こういうところは抜け目がない。
その場で口をつけ、横目で小林の表情を窺う。なんてことはない、普段通りだ。
自分の唇を指で触れた。あまりにもいつも通りだからか、拍子抜けする。そして、悲しくなった。私は唇の感触も、あの夜の小林の声も覚えているのに。
朝のニュースを一通り見てから佐藤は授業に行き、私は自宅に向かおうとした。しかし、勝手に愛車にまたがっている小林がそれを邪魔する。
「これ最初はかっこいいと思ってたけど見慣れると可愛いよねー。ぶーん」
「そうだよ可愛い子だよ」
「花ちゃん親ばかー。けど可愛いなー。あたしも買おうかなー。でも車のがいいなー」
「なんでもいいけど降りてよ……って後ろに乗るな。二人乗りはしないってば」
「えー」
「えーじゃない。危ないから駄目」
「けちー」
「なんとでも言えばいい」
抑揚のない声でそう言ってはみても、小林はへらりと笑うだけだ。仕方がなく押して歩き出せば、小林も後ろをついてくる。
「大丈夫なのに」
「駄目。安全第一」
「それ大事! そういえば花ちゃんさ」
「んー」
「あたしを乗せなくなったのって高校2年生のときからだよね。自転車の二人乗りのときから」
そんな昔のことは覚えていて、昨日のことはなんとも思わないのか。それとも本当に覚えてないのか。ふつふつとお腹の底が熱くなる。
「転んで膝すりむいただけなのに、泣きそうな顔して花ちゃん謝ってたよね」
「うん」
「花ちゃんの方が痛そうなのに、あたしの心配ばかりしてさ。今思い出しても笑っちゃうよ」
「私は、笑えないけど」
間を開けて言う。
「どこまでついてくるの」
「どこまでも」
「大学行かないの?」
「今日はいいやー」
「珍しいね小林が」
「花ちゃんに言われたくない」
「……ああそう」
暇つぶしだ。私は小林の暇つぶしにされているのだ。なんでか、そう嫌な風に捉えてしまう。
今日もまた、なんでもない一日になるんだろうか。また同じ日常を繰り返すのだろうか。
少なくとも昨日の私は、それを望んでない。
「小林、昨日の夜のこと覚えてる?」
「夜?」
「あたしが……、ごめん、やっぱりなんでもない」
「ちゅーのこと?」
間抜けた発音で、あっさりと言われた。私は目を見開く。
「覚えてるよ?」
「そう……」
「酔ってるからって、ちゅーしちゃ駄目だよー」
「ごめん……。したくなったから」
「花ちゃん大胆発言だよそれー。でも寝てるときにするなんて、これだから酔っ払いはー」
そうやって笑う。
ああ、そっか。冗談としか思えないよね。私は何を期待していたのだろう。小林が意識してくれるかもしれないなんて、そんなことあるわけがないのに。だってずっと私は見てきたんだ。隣でずっと、見てきたんだ。
私の斜め前を小林が歩く。華奢な背中を抱きしめたのは一度だけ。
見てきたからわかるんだ。また誰かが、奪いにくることを。何食わぬ顔で、小林を連れて行ってしまうことを。
昨日の夢を思い出す。
私はまた、繰り返すのだろうか。目の前でまた、何もせずにくすぶるのだろうか。やり場のない気持ちを抱えて、また小林が私の隣に帰ってくるのを待つのだろうか。
いつの間にかアパートの前まで来ていた。階段の下に原付を止め、のろのろとドアの前に立つ。
「小林」
「なにー」
「起きてたらしてもいいの?」
「なに言ってんの花ちゃん」
鍵穴に鍵を差し込んで回すと、金属がこすれる音を立てた。
視線をあわさずに、再び尋ねる。
「今ならキス、してもいいの?」
ゆっくりと小林を見た。首を傾げられた。眉は八の字である。
これは困らせている、と思いながら鍵を握りしめた。おずおずと小林が口を開く。
「花ちゃん……どうしたの?」
「私はね小林、私がキスするのは酔っぱらってたからだとか、誰でもいいわけじゃないんだ」
朝起きたら、小林はそこにいてくれた。本当なら、いなくなっててもおかしくはないと思う。友達にいきなりキスされるのって、冗談で済めばいいけど、人によっては結構きついものがあると思うし、警戒してしまう。空気を察して、変に勘ぐって、距離を置きたくなって。なんとなく疎遠になって。
小林がそこにいるとわかったとき、ひどく安心した私がいた。怒りを抱きつつも、ほっとしていたのだ。いつも通り、オレンジジュースを用意してくれて、笑いかけられて。それってさ、ほんとはすごいことなんだよね。
口を開く。
「小林のことが、好きだからだよ」
でも私は腹が立って仕方がない。もっと意識してよ。むかつくよ。
「知ってる」
ほら、すぐそうやって怪訝な顔をして即答する。小林は本当にわかってない。
「違う。小林は知らない。友達としてじゃなくて」
「……恋人みたいなちゅーとか、えっちなことしたい好きってこと?」
「極端に言えばそうだけど」
「……いきなり言われてもわかんないよ、だったら今まで花ちゃんはあたしのこと友達じゃなかったの?」
「友達だよ」
喉が乾く。脈がうるさい。
「でも、もう友達じゃ限界」
「限界?」
「うん。限界」
「親友があるよ。あたしは、花ちゃんのこと親友だと思ってたけど……」
「あたしもそうだよ小林」
「じゃあ」
「あのね、もう一回言うね。好きなんだ」
小林の声に重ねて強く言った。
「友達じゃ駄目、親友でも足りない」
目を丸くして私を見るから、負けじと見返す。
「小林、私の恋人になってほしい」
震えないようにはっきりと言う。
すぐに、蚊の鳴くような小さな声がした。小林のこんな声は、初めて聞いた。
「……もし、あたしが嫌だって言ったら」
思わず息を止めそうになった。ぐっと堪えてから、至って普通に聞こえるように言う。
「全部やめる。小林とのこと、全部やめる」
「やめる? やめるってなに?」
「一緒にいるのをやめる。ご飯も食べにいかない。もう会わない。……嫌いになる」
「そんなの嫌だよ。嫌だ。嫌だ嫌だ」
「……嫌って言うな。私も嫌だよ」
「はあ!? 言ってることめちゃくちゃだよ! 一方的で花ちゃんずるいよ!」
わかってるよそんなこと。
「ずるい! ずるいよ!」
でもこうでもしなきゃ、あたしはいつまでたっても前に進めない。それに元にも戻れない。
「もうわけわかんないよ。なんで急にそんなこと言うの?」
「小林」
「嫌だ。嫌だよ。もうやだ! わけわかんない! 花ちゃんのこと、わかんないよ!」
「……小林」
「嫌だ! わかんない!」
「わかってよ!」
怒鳴った。言ってからはっとした。びくりと小林が肩を震わせ、一瞬泣きそうな顔をした。
すぐにぎろりと睨まれる。一瞬ひるんだその隙に、鍵を奪われた。
「わかるかぼけー!」
と叫ばれて、ドアを乱暴に閉められてしまった。ぽかんとつっ立っていたが、すぐさま我に返り、慌ててドアノブを回す。しかしそれも遅く、がちゃりとご丁寧に鍵をかけられた。がちゃがちゃと回しても開くわけもなく、うるさい音だけが響く。
「小林! ねえ小林!」
ドアを叩いてもうんともすんとも言わない。
私の部屋に立てこもられた。その場でぺたりと座り込む。携帯の履歴から小林に電話をかける。出ない。もう一度鳴らせば、今度は電源を切られた。メールを送っても返ってこない。時間だけが過ぎていく。
ドアをもう一度強く叩いた。
「小林、あけてよ……」と呟いてからじわっと涙が滲んだ。なんなのこれ、小林、あたしのこの涙の意味はなんなの。
悔しいの? 悲しいの? それとも呆れてるの? または怒ってるの?
もういいよなんでも。そう思い、涙を拭った。肌にこすれてひりひりと痛んだが、それでもごしごしとこすり、ドアに向かってまた怒鳴った。
「小林の馬鹿! 家返せ!」
意を決して告白してみれば、家を乗っ取られた。とんだ茶番であり、情けないことこの上ない。
私はまた声をあげて泣きたくなるのを我慢して、日の光に反射して輝く緑の単車に飛び乗ったのだった。
あたしは、ずるい