花ちゃんと小林

□09話、あたしは、ずるい
1ページ/1ページ

 
 ずがんと、頭を打ち抜かれたように痛い。こめかみに手のひらを当てる。頭はシーツに押しつけたままだ。
 そろりと瞼を開いて「ああ」と掠れた声が出る。懐かしい夢を見た。出来れば二度と経験したくない、あの日のことだ。それも、ほんのわずかに切り抜かれた、一部分だけど。

「花、起きてる?」

佐藤だ。肩を揺すられて身体を起こせば、ぐらりと頭が傾いた感覚がし、すぐにまた頭痛が走った。ぼすっとシーツにまた顔をうずめる。

「ったー……」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない……気持ち悪いし……」
「だらしがないなー。ほら、起きて起きて」
「ん……、小林は?」
「こばなら朝ご飯作ってるよ」

 わずかに頭をあげると、ソファの向かい側にあるキッチンに小林が立っているのが見えた。その背中を数秒見つめ、声をかける。

「おはよう」
「おはよー花ちゃん。うわっ。ひどい顔」

 そう可笑しそうに笑い、目玉焼きをお皿の上に乗せた。ちなみに二人分の朝食しか用意されていないのは、私が食べれないからだ。飲んだ次の日に決まったものしか受け付けない、とても面倒な体質のせいである。

「はい、オレンジジュース」
「……ありがと」

 小林はそれをちゃんと知っている。こういうところは抜け目がない。
 その場で口をつけ、横目で小林の表情を窺う。なんてことはない、普段通りだ。
 自分の唇を指で触れた。あまりにもいつも通りだからか、拍子抜けする。そして、悲しくなった。私は唇の感触も、あの夜の小林の声も覚えているのに。

 朝のニュースを一通り見てから佐藤は授業に行き、私は自宅に向かおうとした。しかし、勝手に愛車にまたがっている小林がそれを邪魔する。

「これ最初はかっこいいと思ってたけど見慣れると可愛いよねー。ぶーん」
「そうだよ可愛い子だよ」
「花ちゃん親ばかー。けど可愛いなー。あたしも買おうかなー。でも車のがいいなー」
「なんでもいいけど降りてよ……って後ろに乗るな。二人乗りはしないってば」
「えー」
「えーじゃない。危ないから駄目」
「けちー」
「なんとでも言えばいい」

 抑揚のない声でそう言ってはみても、小林はへらりと笑うだけだ。仕方がなく押して歩き出せば、小林も後ろをついてくる。

「大丈夫なのに」
「駄目。安全第一」
「それ大事! そういえば花ちゃんさ」
「んー」
「あたしを乗せなくなったのって高校2年生のときからだよね。自転車の二人乗りのときから」

 そんな昔のことは覚えていて、昨日のことはなんとも思わないのか。それとも本当に覚えてないのか。ふつふつとお腹の底が熱くなる。
 
「転んで膝すりむいただけなのに、泣きそうな顔して花ちゃん謝ってたよね」
「うん」
「花ちゃんの方が痛そうなのに、あたしの心配ばかりしてさ。今思い出しても笑っちゃうよ」
「私は、笑えないけど」

間を開けて言う。

「どこまでついてくるの」
「どこまでも」
「大学行かないの?」
「今日はいいやー」
「珍しいね小林が」
「花ちゃんに言われたくない」
「……ああそう」

 暇つぶしだ。私は小林の暇つぶしにされているのだ。なんでか、そう嫌な風に捉えてしまう。
 今日もまた、なんでもない一日になるんだろうか。また同じ日常を繰り返すのだろうか。
 少なくとも昨日の私は、それを望んでない。

「小林、昨日の夜のこと覚えてる?」
「夜?」
「あたしが……、ごめん、やっぱりなんでもない」
「ちゅーのこと?」

 間抜けた発音で、あっさりと言われた。私は目を見開く。

「覚えてるよ?」
「そう……」
「酔ってるからって、ちゅーしちゃ駄目だよー」
「ごめん……。したくなったから」
「花ちゃん大胆発言だよそれー。でも寝てるときにするなんて、これだから酔っ払いはー」

 そうやって笑う。
 ああ、そっか。冗談としか思えないよね。私は何を期待していたのだろう。小林が意識してくれるかもしれないなんて、そんなことあるわけがないのに。だってずっと私は見てきたんだ。隣でずっと、見てきたんだ。
 私の斜め前を小林が歩く。華奢な背中を抱きしめたのは一度だけ。
 見てきたからわかるんだ。また誰かが、奪いにくることを。何食わぬ顔で、小林を連れて行ってしまうことを。
 昨日の夢を思い出す。
 私はまた、繰り返すのだろうか。目の前でまた、何もせずにくすぶるのだろうか。やり場のない気持ちを抱えて、また小林が私の隣に帰ってくるのを待つのだろうか。
 いつの間にかアパートの前まで来ていた。階段の下に原付を止め、のろのろとドアの前に立つ。

「小林」
「なにー」
「起きてたらしてもいいの?」
「なに言ってんの花ちゃん」

 鍵穴に鍵を差し込んで回すと、金属がこすれる音を立てた。
 視線をあわさずに、再び尋ねる。

「今ならキス、してもいいの?」

 ゆっくりと小林を見た。首を傾げられた。眉は八の字である。
 これは困らせている、と思いながら鍵を握りしめた。おずおずと小林が口を開く。

「花ちゃん……どうしたの?」
「私はね小林、私がキスするのは酔っぱらってたからだとか、誰でもいいわけじゃないんだ」

 朝起きたら、小林はそこにいてくれた。本当なら、いなくなっててもおかしくはないと思う。友達にいきなりキスされるのって、冗談で済めばいいけど、人によっては結構きついものがあると思うし、警戒してしまう。空気を察して、変に勘ぐって、距離を置きたくなって。なんとなく疎遠になって。
 小林がそこにいるとわかったとき、ひどく安心した私がいた。怒りを抱きつつも、ほっとしていたのだ。いつも通り、オレンジジュースを用意してくれて、笑いかけられて。それってさ、ほんとはすごいことなんだよね。
 口を開く。

「小林のことが、好きだからだよ」

 でも私は腹が立って仕方がない。もっと意識してよ。むかつくよ。

「知ってる」

 ほら、すぐそうやって怪訝な顔をして即答する。小林は本当にわかってない。

「違う。小林は知らない。友達としてじゃなくて」
「……恋人みたいなちゅーとか、えっちなことしたい好きってこと?」
「極端に言えばそうだけど」
「……いきなり言われてもわかんないよ、だったら今まで花ちゃんはあたしのこと友達じゃなかったの?」
「友達だよ」
 
 喉が乾く。脈がうるさい。

「でも、もう友達じゃ限界」
「限界?」
「うん。限界」
「親友があるよ。あたしは、花ちゃんのこと親友だと思ってたけど……」
「あたしもそうだよ小林」
「じゃあ」
「あのね、もう一回言うね。好きなんだ」

 小林の声に重ねて強く言った。
 
「友達じゃ駄目、親友でも足りない」

 目を丸くして私を見るから、負けじと見返す。

「小林、私の恋人になってほしい」

 震えないようにはっきりと言う。
 すぐに、蚊の鳴くような小さな声がした。小林のこんな声は、初めて聞いた。

「……もし、あたしが嫌だって言ったら」

 思わず息を止めそうになった。ぐっと堪えてから、至って普通に聞こえるように言う。

「全部やめる。小林とのこと、全部やめる」
「やめる? やめるってなに?」
「一緒にいるのをやめる。ご飯も食べにいかない。もう会わない。……嫌いになる」
「そんなの嫌だよ。嫌だ。嫌だ嫌だ」
「……嫌って言うな。私も嫌だよ」
「はあ!? 言ってることめちゃくちゃだよ! 一方的で花ちゃんずるいよ!」

 わかってるよそんなこと。

「ずるい! ずるいよ!」

 でもこうでもしなきゃ、あたしはいつまでたっても前に進めない。それに元にも戻れない。

「もうわけわかんないよ。なんで急にそんなこと言うの?」
「小林」
「嫌だ。嫌だよ。もうやだ! わけわかんない! 花ちゃんのこと、わかんないよ!」
「……小林」
「嫌だ! わかんない!」
「わかってよ!」

 怒鳴った。言ってからはっとした。びくりと小林が肩を震わせ、一瞬泣きそうな顔をした。
 すぐにぎろりと睨まれる。一瞬ひるんだその隙に、鍵を奪われた。

「わかるかぼけー!」

 と叫ばれて、ドアを乱暴に閉められてしまった。ぽかんとつっ立っていたが、すぐさま我に返り、慌ててドアノブを回す。しかしそれも遅く、がちゃりとご丁寧に鍵をかけられた。がちゃがちゃと回しても開くわけもなく、うるさい音だけが響く。

「小林! ねえ小林!」

 ドアを叩いてもうんともすんとも言わない。
 私の部屋に立てこもられた。その場でぺたりと座り込む。携帯の履歴から小林に電話をかける。出ない。もう一度鳴らせば、今度は電源を切られた。メールを送っても返ってこない。時間だけが過ぎていく。
 ドアをもう一度強く叩いた。
「小林、あけてよ……」と呟いてからじわっと涙が滲んだ。なんなのこれ、小林、あたしのこの涙の意味はなんなの。
 悔しいの? 悲しいの? それとも呆れてるの? または怒ってるの?
 もういいよなんでも。そう思い、涙を拭った。肌にこすれてひりひりと痛んだが、それでもごしごしとこすり、ドアに向かってまた怒鳴った。 

「小林の馬鹿! 家返せ!」

 意を決して告白してみれば、家を乗っ取られた。とんだ茶番であり、情けないことこの上ない。
 私はまた声をあげて泣きたくなるのを我慢して、日の光に反射して輝く緑の単車に飛び乗ったのだった。


あたしは、ずるい


[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ