花ちゃんと小林

□08話、上手な呼吸の仕方
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3 years ago.

 世界が終わればいいのに、と最近そんなことばかり思っている。
 緑のタイを指でいじりながら、ぼーっとベンチに座っていた。綺麗な形にすると手元が暇になり、髪の毛を三つ編みにしてみたりしたがすぐにほどく。三つ編みだなんて柄じゃないし、野暮ったい。
 部活をさぼってしまった。理由は、そういう気分ではないからだ。同じパートの先輩や部長に聞かれたら顔を般若のようにして怒るだろう。同じクラスの子にはばれているだろうし、病欠だとは思われないよねと、明日の朝練を億劫にも思いながらそこから立てずにいる。
 風が冷たく、ぶるっと身震いする。コートのボタンを締め、ポケットに手をつっこんだ。
 管楽器の音だしが始まり、なめらかな音、不安定なぶれた音など様々な音色が校舎外にも響いた。部室以外で聴くのは初めてだなと目を閉じる。
 ふいに、頭上からカントリーロードが流れてくる。小林だ。いつも最初に決まって吹くのだ。二人並んで、私はトロンボーンだけど、アルトパートを小林に合わせて吹く。本当は短音だけを吹くか、音階を上げたり下げたりした基礎的なものもやる。それもやるが、私たちはいつもゆっくりと大きくカントリーロードを吹き始めるのだ。
 毎日の日課だった部活を初めてさぼった感想は、案外暇だということと、解放感がさしてないということだ。あと付け加えるならほんの少しの嫌悪感が含まれていると言ったほうがいいのか。
 聞こえてくる曲に口笛を合わせてみる。2番に差し掛かったところで、渡り廊下を歩く男子に見られているのに気付いて恥ずかしくなった。
「私なにやってんだろ」そう呟いて、吹奏楽部の棟を見上げる。短音だけの音だしが終わったのかメロディがついたものになった。
 20分ぐらいそこにじっとしていたからか、くしゃみをした。鼻水をすすり、もう一度くしゃみをする。風邪を引きそうだ、ぼうっとするのをやめて帰ろうと前を向き直り、盛大にため息をついた。
 頭の中で「小林」と名前を呼んだ。これはいつから日課になってしまったのだろう。
 ぱたぱたと足音が聞こえる。立ち上がって校舎に戻ろうとすれば、その向かってきた足音とはち合わせた。振り返れば茶色いダッフルコート、赤いチェックのマフラーをした小柄な女子生徒が、自販機に駆け寄る。それが普段から見慣れたものだったので、私は目を疑った。

「帰るの待った! 待っただよ花ちゃん!」

 なんで小林が、という顔をしていたのだろう。小林はふらふらとこっちに向かってきて、手元のココアがゆらゆらと縁から見え隠れしていて危なかった。私がさっきまで座っていたベンチに小林が座ると、空いた部分を手で軽く叩いて呼ばれる。無視をしようと思ったけど、今度は強めに叩かれた。
 細く息をつくと、目の前に白い線を引いた。ゆっくり足を踏み出して、また先ほどと同じ場所に腰を下ろした。隣には、こくこくとココアを飲んでいる小林がいて、何を言うまでもなく眺めた。不意に、目の前に差し出されびくっと肩を動かしてしまった。

「半分こ」
「珍しい」
「走ってきたから熱くて、もういいや」

 おずおずと受け取り「ありがとう」と言い口をつける。飲み込めば、小林が好きなココアの味がして、お腹の中がゆっくりと温かい液体が入っていくのがわかった。
 息まで温まる。

「花ちゃんってば悪だねー。さぼるだなんて」
「そういう小林だって……。でもさっきまで部室にいたのになんで」
「だって花ちゃんいないんだもん。一緒にカントリーロード吹いてくれないと調子出ないよ」
「なにそれ、あたしのせい?」
「うん。花ちゃんのせい。初めてさぼっちゃった」

 だらしなく笑い、身を寄せてくる。温かいなと、それでも若干身が強ばった。

「トイレ行って何気なく窓からみおろしたら花ちゃんがぶるぶる震えて見えて」

 と、ふざけた調子で言う。
 だから走ってきたの? とか、あたしがいないと嫌なの? だとか、自分は熱いくせに寒がっている私に温かい飲み物をくれたの? そんなことばかり考えながらも、自分の都合のいいようにしか言葉を取れそうになかったから聞き返すのはやめた。私は、一番ではないと知っているからだ。
 小林がマフラーを私に巻き付けたので、丁寧に取って、手の上に返した。

「寒くないの?」
「寒いよ」
「貸してあげるって」
「いらない」

 普通の声を努めて出してから、駄目押しでほんの少しでもと笑いかけた。顔が強ばるような感覚がしたからだ。指が震えそうになったので、すぐにまたポケットにつっこんだ。胸の辺りが息苦しくなり、また大きく吐き出したくなる。
 慣れてきたのにな、あーあーと心の中で思いながらも、「大丈夫だよ」と笑った。
 そのマフラーをつけると、きっと遠くへ放り投げたくなるのを小林は知らないんだ。

「花ちゃん」
「なに?」
「花ちゃん」
「……なに」
「花ちゃん花ちゃん」

 ただ呼びたいだけなんだろうが、煩わしいと思ってしまう。小林は困ったような顔で笑った。

「具合悪いの?」
「ううん、悪くない」
「ここ最近さー、あたしといると、今みたいに怖い顔するよね」

 先ほどと変わらぬ表情で言われ、私は一瞬だけ思考が止まった。怖い顔なんか、していないはずなのに。張り付くぐらいの、笑顔で固めていたと思う。緊張してるんだ、きっと。

「わかるよ」

 手の中のココアが、熱く感じた。
 なにがわかると言うんだろう。小林はきっと、わかってないのに。わかっていたら、こうやって追いかけることも、マフラーを渡してくることもしないはずだ。
 ほっぺたを両手で挟まれた。今、ひどい間抜け面をしているかも。

「あたし、花ちゃんになにかしたと思う」

 はっきりと「わかるよ」だなんて言ってのけたくせに、理由だけは自信なさげに話すんだと呆れた。
 とんでもないことをした、といえば八つ当たりだと言われるかもしれない。なにかされたといっても、それは小林から言わせれば理不尽だと思われるだろう。
 泣きながら帰った私のことを思い出しながら、つい昨日のような出来事だとも思った。それは私の今の気持ちが、一ヶ月前、小林に彼氏が出来たと聞かされたときの気持ちと似ているからなのだろう。

「ううん、なにも」
「じゃあ、彼氏となにかあった?」
「それもなにも」

 諦めと当てつけで、私は数週間前になんとなく良い感じだった同じクラスの人とつき合った。関係は、良好だ。セックスは、いつかしてしまうのだろうかと思っている。
 小林はもうしたのだろうか。でもしてないようにも見える。キスはどうなのだろう。手はさすがに繋ぐだろうなとそんなことばかり考えている。
 寒くなったからと、マフラーをプレゼントされたらしい。小林は満足そうな顔をしていた。それでいて、少し照れくさそうだった。
 胸の息苦しさや、少し窮屈な動悸、身体が強ばる感覚にも慣れてきた。ただ気持ちだけは、これだけは変わらないみたいで、どうしても慣れないのだ。
 私はいつも、すごく嫌だと思っている。それと同時に、悔しいとも。
 
「そろそろ帰るね」
「あたしも帰る」
「小林彼氏待たなくていいの?」
「花ちゃんだって」
「……あたしは、いいよ」
「じゃあ、あたしもいい」

 それはよくないと小林を見れば、丸い目を尖らせてこっちを見ていた。あ、怒っていると気付いても、だからなんだ私はずっと悲しいんだと思ってしまった。

「一緒に帰ろうって言わなきゃ、帰ってくれないの?」
「なんでそういう言い方するの」
「花ちゃんが先に始めたんじゃん」

 始めたのはいつからなのか、私も小林もきっとわかっているのだ。ただ、終わらせ方がわからなくて、やきもきしているのが小林で、私はこの悲しみに無理矢理慣れるか、小林が別れないかしない限り終わらないと感じているのだ。

「ずっとこんな感じは嫌だよ」
「小林のずっとって、どこまで?」
「高校卒業まで、大学生、社会人、そのともずっと遠く」
「……自信ないなー」
「なんでそんなこと言うの」
 
 怒らないでよ、今の私は最低だっていうことをよくわかってよ小林。こんな八つ当たりをしちゃうんだから、こうでもしないとやってられないんだから。

「なんでって言われても」
「あたしは自信あるよ」
「たとえば?」
「たとえばって……、明日一緒に部長のゆかちゃんに怒られて、それで部活やって、次の日の朝は一緒に学校行って、体育して、お昼食べて、一緒に帰って、それをずっと繰り返して、同じ大学に言って、同じ授業とって、それから」

 それから、そのあとがなかなか出てこない。
 小林を見守りながら、ずっとなんて言葉を私は信じられないんだと思った。赤いチェックのマフラーから目を逸らして、信じられないなと心の中で繰り返した。

「花ちゃん、あたしのこと嫌いになった?」

 語尾が段々と消え入るようなその声に、鼻の奥がつんとした。
 信じられることがあるとすれば、私が小林に対する想いだ。それは褪せることもなく、ただ確かに訴えている。これが良いことなのかはわからない、むしろよくないとも思う。もしも小林の言う「ずっと」が続いたらいつかこの想いが爆発してしまいそうで、本当にこの小さな世界が終わってしまう気がして。そのとき私は、どうするのだろう。
 小林がまた小さな声で「嫌い?」と尋ねる。
 瞼がじわっと熱くなり首を横に振った。

「ほんとに?」
「ほんと」
「じゃあ、好き?」

 自信なさげな声で言われ、胸がぎゅっと握りつぶされたような気がした。
 掠れた声で「ばか」と小さく言い、私は小林の顔に抱きつくように頭をぐしゃぐしゃになでた。
 打って変わって迷惑そうな声で「は、花ちゃん! 花ちゃんなにすんの! 花ちゃんってばあ!」と騒ぐ。「小林、帰ろう」押しのけようとしてくるその腕ごと抱えて、私はそのまま声を漏らさないよう、駄目だ駄目だと思いながらも、涙をこぼした。
 小林のことが好きで泣いた。
 18歳の、冬のことだった。


上手な呼吸の仕方

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