TSUBASA Novel 2
□自殺未遂
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魔力の波動に誘われるように、ファイはふらふらと屋敷を出た。
警戒色を孕むマゼンダに燃える夕焼け空。その下の山の奥から、ずっとファイを呼んでいる。
「やあ」
鬱蒼と茂る木々の下、道なき道を過ぎて辿りついた先には、自分そっくりの男がいた。
しかし黒のマントに隠されたその手足は動くたびにガチャリと金属音を慣らしており、両目は黒布で覆っている。
その手には弓があった。ファイが祭事に使っているのと同じものだ。
「待っていたよ」
「誰、」
「お前がそれを問うの?わかっているくせに」
「…オレ?」
「ご名答。ただし、10年後のね」
「なにしにきたのかな」
「黒様を殺しちゃったんだ。ここから2年後の世界で」
あっさりと吐かれる重大な告白。
剥離された現実感に離脱した驚愕。
魔物の哭く声が遠くで聞こえる。
「今ここで、どうして黒様が死んだか教えたら、黒様は死なないかなぁ?ねぇ、どう思う?」
「教えに…きたの?」
「ううん。本当は、オレを殺しにね」
「あ」
「魔力を追って来たんだ。できれば黒鋼に出会う前に、セレスで王が死ぬ前に、ヴァレリアの谷でファイを殺す前の世界に来たかったんだけど」
「そんなこと…」
「うん。出来なかった。魔力をいくら溜め込んでも、最大限の対価を払っても、ここが限界だったみたいだね。一番平和で愛し合っていた時」
「……」
「でも、同じことなのかな。オレはオレを殺すよ」
「…黒様を、生かすために?」
「2年後で死ななくたって、その次は?オレといる限り、いつかオレのせいで死ぬことがある可能性がつきまとうんだ。ずっと」
「うん」
「だからさ、殺してあげようと思って」
「ありがとう」
「黒様が身体を張って守ってくれた命だけど」
「ありがとうね」
「黒様が死ぬより何千倍もマシ」
ファイは彼がどれくらい黒鋼を愛しているか知っているから、笑った。
黒鋼が死んだあと、8年間、どれほどの思いを耐えたのか。
きっとここに、過去に戻るためだけに8年を耐えたのだ。
魔力を、両目を失いながら、どんな対価を支払ってここにきたのか。
「殺しても、謝らないよ」
「お礼を言うよ」
「…オレってこんなに馬鹿だったっけ」
「ずっとこうだよ」
「これじゃあの人が遠征にいけなかったわけだ」
「2年後でも行ってなかったの?」
「行かなかった。オレのこと心配してたんだね」
目を閉じて命を絶たれるのを待つことにする。ギリギリ、と弓の弦を引く音が耳に聞こえた。
心臓を狙いやすいように、真正面に立ち尽くしてその衝撃を待つ間、不思議と穏やかな気分だった。
10年後も、黒鋼が死んだあとも、自分が黒鋼を想い続けているのが嬉しかった。
黒鋼を守るために、オレを殺しにきてくれたことが嬉しかった。
この殺意は黒鋼の生命を守ると同時に、過去のファイへの救いなのだろう。
「サクラちゃんたちがオレを優しいといったとき、信じなかったけど」
ファイを殺すことで今の黒鋼に憎まれることも知っていて、それでもファイも黒鋼も守ろうとしている。
それはなんて優しいことなのだろう。
「オレって優しかったんだね」
「さようなら、黒鋼の愛した人」
「さようなら、黒鋼を愛した人」
「馬鹿かお前らは!」
「「あ」」
自殺未遂だか殺人未遂だかはその声で中断されてしまった。
目の前では10年後のファイがふてくされたように溜息をついている。
「普通さ、あれだけ魔力飛ばして呼んだら独りでくるよね…普通……」
「いやぁ、オレも独りで来たつもりだったんだけど…」
「いいからテメェらそこに正座しろ!」
「「痛いから嫌」」
黒鋼は怒りすぎて血管が千切れそうになっている。
10年後のファイが愛しむように、懐かしむように、泣きそうに、笑う。
「もうすぐ日が落ちるね」
「んなこたどうでもいい!こうなった経緯を詳しく話せ!そして土下座して謝れ俺に!」
「君を殺したことを?」
「お前を殺そうとしたことだ!」
「ぷぷっ。君らしくて変なの」
「変じゃねえ!だいたいお前は、」
「もう日が落ちる。タイムリミットだ」
「ああ?」
「君が守るファイを、こんな短時間で殺せるわけないし、諦めよう。俺の8年は無駄に終わったけど」
「話が見えねぇ」
「こっちのお話。もういくよ」
「おい!」
「覚えていてね。俺は…ファイは、君の不幸を呼ぶんだから。それと2年後の弥生にある戦は、」
彼は風にさらわれるように千切れて消えた。
別れを惜しむ間もなく、まるで幻だったかのようにあっさりと、一瞬で。
「…いなくなっちゃった」
「なんだったんだ…?あいつどこにいった?」
「魔力の波動感じない。この世界にはもう、いないのかも…」
それが永遠の別れであるとしたら、なんて寂しい最後なんだろう。
長い年月を自分を殺すためだけに生きてきたのなら。
彼は最後に、笑っていたけれど。
「……」
「……大丈夫、彼はきっといけたはず」
きっと愛しい人の元へ。
もしかしたら今頃、『何してンだこの阿呆!』なんて、頭ごなしに怒られているかもしれない。
その様子が眼に浮かんで、笑ってしまう。
「いつからいたの?黒様」
「最初からだ」
「そう」
「お前、俺が止めなきゃ黙って死ぬ気だったのか」
「まさか。弓を射る瞬間に返り討ちにしてやろうと思って待ってたんだよ」
「嘘つきめ」
「今更」
「あいつ、足音がおかしかったな」
「手足は義手・義足かな。内臓がなかったようだから、身体のバランス悪かったんじゃないの?」
「なんだと…?」
「なんとなく、感覚的にね。ないなぁ、って感じがした。眼もないし、どうやって俺に弓を当てる気だったのやら…ああ、気配ってやつかな。小狼君みたいに君に習ったとか?」
「……」
「よくやるよねー。オレ、黒様のこと愛してるけど、あそこまでは出来ないかもー」
嘘だ。
きっと守るためならなんだってするんだろう。
それを黒鋼が望まなくても。
「…お前も、お前があんな身体になってまで、俺のためにお前を殺してほしいと思ってると思うのか」
「うわぁ黒りんその台詞すっごいややこしすぎて理解不能かもー」
「茶化すな!」
真っ直ぐな黒鋼には理解できないだろう。
黒鋼が望んでいないことは十分にわかっている。
けれど彼もまた同じ孔の狢だったことを思い出して笑う。
「東京で、君はオレを生かしたね」
「……ああ」
「オレが望んでいるかいないかより、君がオレを生かしたいと望んだからそうしてくれたでしょう」
「……」
「オレもきっとそうだったんだよ。君がオレを殺したいんじゃない。オレが君のためにオレを殺したかったんだ」
やっぱりややこしね、と笑って、魔術師は闇の降りた空を見上げた。
「2年後の弥生だったね、君が死ぬのは」
「俺は死なねぇよ」
「本当かなぁ。怪しいなぁ」
あんな痛々しいファイを見るくらいなら、地を這いつくばってでも、泥水をすすってでも生き延びる。
黒鋼は空の遠くをぼんやりと眺めているファイを、強く抱き締めた。
香の香りがかすかに気持ちをやわらげる。
「お前が自害したら、俺はどんな対価を払ってもお前を取り戻す」
「それはないね」
「…俺は本気で言ってる」
「君はそんなことをしないよ」
「薄情だって?」
「君ほどオレを愛してくれる人なんていないよ。でも…強い人だと思ってる。そんなことをする人じゃないって」
「お前は…!」
「オレは弱いから、あんなふうになってしまったんだね。黒様がいけないんだよ。オレより先に死んだりするから」
「…死なねぇ。ああなるお前を知ってて、誰が死ねるか」
「死なないで。オレが死ぬまで」
「ああ」
まもなく星が空を覆い尽くすだろう。
生ぬるい風に冷風が紛れて二人の体温を奪っていく。
魔物の哭き声が遠くで血の滴る獲物を探している。
(オレが今死ねなかったことが、君にとって不幸になりませんように)
苦い思いでその言葉を飲みこんだ。
黒鋼が睨んでいる。
今は死ねない、と思った。
end