TSUBASA Novel 2

□こいつは俺の『』
1ページ/1ページ







「おい」
「オレはおいなんて名前じゃありませんー」

 いつもどおりの日常がいつもどおりじゃなくなる時、それはこの魔術師が情緒不安定であることを如実に表す。
 俺はいつもどおりに言い返し、こいつはいつもどおりに笑う。

「ファイ、って呼んでよー黒りーん」
「日本語にそんな音はねぇ。呼びにくい。それから俺の名前もそんな名前じゃねえ!」
「じゃあ、黒鋼。ユゥイでもいいよ?」

 小首をかしげる様が無惨に手折られた花のようだった。
 きっとそれは枯れて散る様すら美しいだろう。

「どっちにしろ呼び辛ぇ」

 発音の問題ではない。それはわかっている。
 今までこいつを名前で呼んだことはない。
 これからもそうだろう。
 名乗られた名前が死んだ片割れのものだと(しかも償いのために自分の名を消したのだと)知ってからは余計に呼ぶ気がしなくなった。
 俺は自分らしくもないことに、今もまだ迷っている。
 『ファイ』を呼んだら、『ユゥイ』がどこにもいなくなるような気がしている。
 しかし『ユゥイ』は俺の知るこいつではない。
 こいつは出会ったときから『ファイ』だった。

「じゃあ、さ」

 こいつは綺麗に笑う。
 俺の首に腕を巻きつけて、縋るように祈るように囁く。

「俺はだぁれ?」

 俺はその問いに、未だ答えられずにいる。
 愚者に黙殺された問いはその胃袋に涙を落して笑うのだろう。
 朝露に濡れる花よりも美しく、痛みなど感じないと錯覚しながらその名を呼ばれる時を待って。ずっと。

「奥」

 唇に乗せて舌を滑って吐き出されたのは、かつて父が母を呼んでいたその音で。

「ぇ」

 苦し紛れに出たその音は、空気によく馴染んだので、それでいいことにした。
 俺はこいつを一生傍に置くだろう。
 こいつはまたふらりとどこかに行ってしまうかもしれないが、そのときは迎えに行くつもりだ。

「俺の奥方」

 抱き締めれば細い肩が心臓を守るように丸まった。

「……ずるいよ。君は」

 俺の奥方は俺を見ようとはせずにただ震えていた。
 泣きたいのを我慢しているのかもしれない。
 泣いていいと言う代わりに抱き締めてキスをした。
 愛しいと、思った。
  











end

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ