TSUBASA Novel 2
□こいつは俺の『』
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「おい」
「オレはおいなんて名前じゃありませんー」
いつもどおりの日常がいつもどおりじゃなくなる時、それはこの魔術師が情緒不安定であることを如実に表す。
俺はいつもどおりに言い返し、こいつはいつもどおりに笑う。
「ファイ、って呼んでよー黒りーん」
「日本語にそんな音はねぇ。呼びにくい。それから俺の名前もそんな名前じゃねえ!」
「じゃあ、黒鋼。ユゥイでもいいよ?」
小首をかしげる様が無惨に手折られた花のようだった。
きっとそれは枯れて散る様すら美しいだろう。
「どっちにしろ呼び辛ぇ」
発音の問題ではない。それはわかっている。
今までこいつを名前で呼んだことはない。
これからもそうだろう。
名乗られた名前が死んだ片割れのものだと(しかも償いのために自分の名を消したのだと)知ってからは余計に呼ぶ気がしなくなった。
俺は自分らしくもないことに、今もまだ迷っている。
『ファイ』を呼んだら、『ユゥイ』がどこにもいなくなるような気がしている。
しかし『ユゥイ』は俺の知るこいつではない。
こいつは出会ったときから『ファイ』だった。
「じゃあ、さ」
こいつは綺麗に笑う。
俺の首に腕を巻きつけて、縋るように祈るように囁く。
「俺はだぁれ?」
俺はその問いに、未だ答えられずにいる。
愚者に黙殺された問いはその胃袋に涙を落して笑うのだろう。
朝露に濡れる花よりも美しく、痛みなど感じないと錯覚しながらその名を呼ばれる時を待って。ずっと。
「奥」
唇に乗せて舌を滑って吐き出されたのは、かつて父が母を呼んでいたその音で。
「ぇ」
苦し紛れに出たその音は、空気によく馴染んだので、それでいいことにした。
俺はこいつを一生傍に置くだろう。
こいつはまたふらりとどこかに行ってしまうかもしれないが、そのときは迎えに行くつもりだ。
「俺の奥方」
抱き締めれば細い肩が心臓を守るように丸まった。
「……ずるいよ。君は」
俺の奥方は俺を見ようとはせずにただ震えていた。
泣きたいのを我慢しているのかもしれない。
泣いていいと言う代わりに抱き締めてキスをした。
愛しいと、思った。
end