TSUBASA Novel 2

□幸福恐怖症
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幸福恐怖症










 ヴァレリアの谷に落されたとき、実のところあまり辛くはなかった。
 あそこから出ようともがいていたのは、ただファイを外に出してあげたい一心で。それは義務感にも似た何かで。愛情で。
 けれど今はどうだろう?
 あの谷にもう一度落されて、永遠に、世界の終わりまでそこにいるようにと言われたならば…。




「…耐えられない」

 ぽつりと呟いて、世界が色を取り戻す。
 陰鬱に囚われた思考を、言葉で粉砕することに成功したファイは、いつの間にか緊張していた肩から力を抜いた。
 畳の伊草の香りがして、夏の光に射された木の陰が視界で揺れる。

「何が耐えられないって?」

 先ほどからずっとファイを抱き留めて、その柔髪を梳いていた黒鋼が、眉間に皺を寄せて問いかける。

「オレ、何か言ったー?」
「『耐えられない』」
「何がー?」
「俺が聞いてるんだ」

 ファイは笑う。黒鋼はそれを信じない。

「ここの生活は、辛いか」

 結局吐き出されたのはそんな不安気な質問で、黒鋼がそれを負い目のように思っているのだろうと窺える。
 なかば無理矢理ここにファイを留めたくせに、いや、だからこそ。

「楽しいよー」

 ファイは小さくキスを送る。黒鋼はそれに誤魔化されはしない。

「お前がそう答えることくれぇ、わかっているのにな」

 わかっていて、問うのは卑怯だと知りながら。
 いつまでも傍に置いておきたいと願うのは罪悪だろうか。
 失う時がいつか来るのではないかと怯えているのはお互い様だ。
 寿命の長いファイにはなおのこと。

「オレ、ここにいる」

 笑顔。
 笑顔。
 笑顔。
 笑顔。
 笑顔。
 笑顔。

 その愛して止まない笑顔を向けられるたびに黒鋼は辟易する。
 何故こいつは、いや、今更なことだ。けれど、何故、あの壮絶な旅を終えてなお、こんなに近くに寄り添ってさえ、何故何も信じない?
 自分の思っていることを曝け出した瞬間、捨てられるとでも思っているのか?そんな軽い想いだとでも?

「黒りん」
「ああ、ここにいろ」

 ファイは目を細める。黒鋼は一層強く抱き締める。
 初めての夏が終わり、穏やかな秋が過ぎ、静かに雪が降る頃になったら、またこの華奢な魔術師の心がさらわれる。そんな予感がしている。
 その時その心を奪い返せるのだろうかと、黒鋼はたまに戦慄する。

「幸せだよー」

 ファイは繰り返し、言い聞かせるようにそう呟く。本当のことだ。
 楽しいのだ、幸せなのだ。狂おしいほど愛しい日々が過ぎていくこの世界は美しい。
 けれどだからこそ、平和な日常があるからこそ。
 あの谷の底での日々がどれだけ恐怖だったのかが、壮絶に蘇るのだ。

 あの死んだような灰の空が。
 ファイを閉じ込めるあの塔が。
 身体から熱を奪うあの空気が。

「怖いくらい、幸せ」

 恐ろしくて仕方ないのだ。










end

 

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