TSUBASA Novel 1
□意志と人形
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目が覚めると、全身が濡れていて、雨が降ったのかとぼんやり考える。
白かった服は赤なのか黒なのかよくわからない染色を施されていて不快だった。
これは血だなぁ、と思ったのに、誰の血なのかもわからない。
何があったのだろう、とやはり濁ってすっきりしない思考のまま辺りを見回すと、部屋の隅に黒い影があった。
睨み付ける眼光だけが、ギラギラと獣のように月明かりを映している。
「黒りん?」
愛称で呼んでいることも気づかずに、ファイが呼びかける。
暗がりから、警戒態勢のまま彼が数歩前に出た。
「ああ…ねぇ、ここに誰かいなかった?」
額に手をやって、必死に思い出そうとするのに、核心に近づこうとすればするほど意識が散り散りに逃げていく。
黒鋼は刀を握っている。
「…俺が来た時にはテメェしかいなかったな」
「君はー…?一人でここに?」
「ああ」
「『ここ』?」
「あぁ?」
「ここって、どこ?」
「テメェが今立ってる場所だろ」
「オレは『ここ』にいるのー?」
「そこじゃなきゃどこにいるんだよ」
なんだかわからないことばかりだ。
ただ漠然と、今『ここ』にいるのは自分ではないような気がして、ファイは首をかしげる。
そして自然と安堵の表情が浮かんだ。
もうしばらく、こんなに気持ちが楽になったことなんてなかった。
これは幸せではない。
けれど、そう錯覚できる何かだった。
「オレー…探しにいくね」
「何を」
「ここにさー、誰かいたんだと思うんだよねー」
「そいつを探してどうする」
「今度はちゃんと殺してあげるんだー」
「言ってることが支離滅裂だって気づいてるか?」
「君も来てもいいよー。来なくてもいいしー。どっちでも同じことだからー」
その言葉に黒鋼はますます警戒の色を濃くした。
「お前、誰だ」
「お前、誰だ?」
ファイは黒鋼の問いかけを反芻する。
まるで言語を学習しようとする人形のようだった。
「お前はあの魔術師じゃねェ」
「お前は、あの、魔術師じゃ、ねぇ」
「ふざけんな!」
怒号と共に黒鋼の拳が容赦なくファイの腹に食い込んだ。
あまりの速さに呆気にとられたまま、ファイの身体が宙を舞う。
不思議と痛みは感じなかった。
ぐしゃり、と棚から落ちた人形のように地に叩きつけられても、ファイは他人事のようにぼんやりと黒鋼を見ているだけだ。
「あの人を探す――今度はちゃんと殺してあげないといけない」
プログラムを読み上げるように感情のこもらない声でそう呟くのを見ていたくなくて、黒鋼は地に伏せたファイの腹を蹴りつける。
薄い肉をかろうじて纏った彼の身体は、今にも折れそうだった。
けれどその表情はといえば、眉をしかめることすら忘れて何かを考えているようだった。
「黒鋼、も、くるかい?」
自分が今何をされているのか、まるっきり把握していないかのようにそう問われ、黒鋼の背筋に寒気が走った。
これは、なんだ?
頭の中に疑問符と苛立ちばかりが浮かぶ。
暴行が止んだのに気づいたファイがふらふらと立ち上がる。
起き上がるために力を込めた衝撃で少しむせて血を吐いた。
それにすら気づいていないようにファイがへにゃりといつものように笑う。
「ずっと殺してあげられなかったんだぁ」
愛おしむような、優しい声で。
「大好きだったのに、殺せなくって」
好きだったから殺せない?
どういう理屈かわからない。
普通好きなら殺さないだろう。
こいつはなんだ。
そもそも誰のことを言っている?
アシュラか?
逃げてきたといっていた。
殺したくなくて逃げてきた?
(どういう状況になったらそうなるってんだ、馬鹿馬鹿しい――!)
「黒様くるのー?」
「行かせるかよ…!」
「ふーん…それってさぁ、オレの邪魔しちゃおうかなってことー?」
「あたりめぇだ。薄気味悪ぃ面して笑ってんじゃねぇよ!」
「邪魔に……?なりそうなら……?殺せっていわれてるんだよね?」
「ああ?誰に―――ッ!」
突然のファイからの攻撃に、反応が少し遅れた。
ファイの爪が飛びのいた黒鋼のマントを裂く。
「誰に?…ああ、そう、邪魔に、なりそーだ、った、ら?んー?」
ファイは自分でもよくわからないような面持ちで、けれどなおも俊敏に攻撃を繰り出してくる。
応戦しつつも若干黒鋼は押され気味だった。
感覚的な痺れのような、鬱陶しい疼きが胸を占めているせいだ。
先程痛めつけた、しかも血も足りないはずのファイの身体がこんなに回復していることへの疑心もあった。
痛みを感じていないような挙動が、東京で別れた小狼を思い出させる。
たしかにそこにいるのに、挿げ替えられてしまったかのような。
消失したかのような、上塗りされたかのような。
まるで操り人形。
「て、めぇ!いい加減にしろッ!」
「こっちのセリフだけど?」
懐に飛び込んできたファイを狙い済まして、鞘の部分を鳩尾に打ち込んでやった。
絶妙な精度で決まったその攻撃に、ファイの身体ががくん、と膝をついて倒れこむ。
それを咄嗟に支えた黒鋼の表情は苦く、歪んでいた。
「…そんな安心したみてぇなツラして寝てんなよ…クソ…ッ」
このまま目を開けなければいい。
そう、思った。
end