TSUBASA Novel 1

□思惑
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『イ……ファイ……』

 ラピスラズリの水の底で優しい音に揺られた。
 鼓膜を通さず直接脳に語りかけるそれが名前を呼んでいる。
 その音を撃鉄にして、ファイは水底を軽く蹴った。
 砂に似た記憶のかけらがファイの暴挙に腹を立てるように舞い上がって夢を覆う。
 これでいい。きっと現実に帰れるはず。寂しくはない。少し苦しいだけ。


 夢を離れると身体に倦怠感と疲労が一気に押し寄せてきた。
 糸の切れたマリオネットのように指の一つさえ動かない。自分の呼吸音が煩い。

「気がついたかい?ファイ」

 瞼を開けることができなくて、でもその声に、ファイは戦慄する。
 幾億年の歳月を懺悔して過ごしてもまだ足りぬ、そこにあるのは過ぎた日の残像だろうか。
 反射的に逃げ出そうとして、全身に力を込める。けれど肩とふくらはぎに軽い圧力を感じただけで、何も起こらなかった。

「口を開けなさい」

 諭すような、でも優しげな口調で言われながら、首の裏に腕をいれて半身を起こされた。人の体温。温かい。そう思った。
 ファイの口に冷たいものが触れる。口の中に静かに液体が流れ込んできた。
 錆びたような、鉄の味。これは血だ、と瞬時に理解した。

「本当は、君の了解を得てから飲ませたかったのだけれど、そのままでは話もできないからね。通常より状態のいいものだから、副作用はそれほど粗悪ではないはずだが」

 何のことを言っているのかわからなかった。
 ただ、逃げたいと思った。
 そして――。それは起こった。



「ッ!!!!」

 唐突だった。
 脱力していた四肢に、瞬時に感覚が取り戻され、細胞が活性化する。
 黒鋼の血を飲んだ直後の感覚によく似ていたが、無理矢理に覚醒させられる強引さがあった。
 スイッチが切り替わったかのように、思考が意味のない回想を始める。走馬灯のように駆け巡るのは、過去で、今で、未来。
 
「大丈夫。身体が落ち着くまで、少し横になっていなさい」 

 暖かな掌が、汗ばむ額を撫でる。
 涙が出そうになって、でも理由はよくわからなかった。

「アシュラ王……?」

 ようやく身体のうずくような熱が去った後、今まであったはずの飢餓や疲労感はあとかたもなく消えていた。
 その様子を見取って、アシュラがファイの身をソファに起こして一人で座らせる。そのまま彼は向かいのソファに移動して座った。
 ファイは必死に平静を取り戻そうと勤めた。
 状況を把握しなければならない。
 まず一つは、目の前の男のことだった。
 阿修羅ではなく、セレスのアシュラと同じ風貌、魂も同じもので間違いないだろう。
 けれどファイの名を知っていた。それはこの世界にもファイと同じ魂の人物がいて、それと間違えているか、それとも…

(それとも、この人がアシュラ王自身か……まさか。チィはなにも反応していない。そんなはずがない)

 脳に浮かぶ思考を、必死に違うと否定する。
 無意識に手足が震えた。心臓が早鐘を打つ。

(…違う、魂が同じなだけだ。アシュラ王は夢見の力を持っていた。ピッフルの知世ちゃんと日本国の知世姫が夢で繋がっていたように、夢でセレスのアシュラ王と繋がっていたと考えるほうが辻褄が合うはず…)

 そこまで考えて、ファイはようやく幾分かの冷静さを取り戻した。
 思考が整うのを待つかのように、アシュラは何も言わずにファイに視線を送っている。
 向き合う形でいながら、ファイはアシュラと目線を合わせることが出来ないままでいたので、表情はわからなかった。

(もう一つ…さっき飲まされたのは血のようだった。でも黒鋼の血以外を受け付けないオレが、こんなに回復するなんておかしい。黒鋼の血の味じゃなかった)

 これについては、目の前のアシュラに聞くほうが懸命だろうと判断し、ファイは静かに口を開いた。
 最初の言葉を何にするか一瞬迷って、口元に勝手に笑みが浮かぶ。嫌な癖だと自分で思った。

「お目にかかれて光栄です……アシュラ様。ご迷惑をかけたようで申し訳ありません」

 意外とすらすらと言葉が出てきたことに自分で驚きながら、けれど目線は合わせられなかった。

「オレは今自分の状態がわからずに困惑しています。…教えていただけませんか?」
「教えられる範囲で言うなら、ここは私の屋敷だよ。君の身体の変化については、薬を飲ませた」
「薬……?貴方が何を、どこまで知っていらっしゃるのか、オレにはわかりませんが……オレの身体は特殊です。オレのさっきまでの状態は、投薬でどうにかなるようなものではなかったはずです」
「けれど、ついさっき自分が何かを飲み込んだという自覚はあるんじゃないかな?そしてそれで楽になった」
「血の…味がしました」
「原料がそうだったからね。甘くしてもよかったが」
「人間の血の、味でした」

 嗚咽をもらす代わりに、自然に指先に力が篭った。

「途端に身体が軽くなって、アレは一体なんなんですか?」
「リネ。というドラッグだよ」
「ドラッグ……?」

 自分を担いで歩いた青年の影が浮かんだ。彼がそんな話をしていた。港で会った男達も、たしかそんな話をしていた。アシュラが流出させているのだとも。

「君は今、ドラッグで一時的に体調を回復させた気分になっているだけ。言うなれば身体を誤魔化しているに過ぎない。回復した、と錯覚させているんだ」
「こんなに……意識がはっきりしているものなんですか…?オレの知るドラッグのイメージとは全然違う…」
「純度の高いものを使ったからね。その辺にある濃度の薄いリネとは質が違う。副作用も…ないことはないが、飢えて死なれるよりは使っておこうと思ってね」

 迷惑だっただろうけれど、と付け足してアシュラが微笑んだのがわかった。

「…貴方はオレを知っていますね?」
「知っているよ」
「何故なのか聞いてもいいですか?」
「舞台裏を知っていいことなんてあると思うかい?」
「…オレが落ち着かないので」
「知らないほうがいいこともある。君は賢明だから、その意味がわかるはず」
「…リネ、というドラッグは、オレの『体質』のために作られたものですね。そしてそれを作るために実験体として…あるいは原料として、死体を集めさせていたんでしょう」

 アシュラはただ母性を宿す彫刻のように優しげに微笑んでいる。

「そして死体を得るために、わざとドラッグをばら撒いたのではないですか…?」

 質問というより、確認だった。
 セレスでのアシュラの変貌振りを知っているファイは、アシュラがそれをする可能性を知っている。
 それが何故なのかとか、そういう裏側は何も知らないのだけれど、ただ棘のように脳に突き刺さって消えることのない記憶だった。
 口に出すことは痛みを伴ったが、ファイは舌を焦がすこともなく問いかけた。

「オレのせい、ですか、貴方も、」
「ファイ」
「貴方が人を殺すのは、オレのせいですか?」
「落ち着きなさい、ファイ」
「…落ち着いています。おかしいくらい…」

 リネの効果。精神力の増強が当てはまるのだろうか。
 通常なら叫びだして狂いたくなるようなこの状況で、ファイは自分で不思議なほどに冷静だった。

「貴方に魔力は感じられない。貴方は…オレに何をさせたいんですか?」

 祈るような気持ちだった。
 殺してくれなんて言われたらどうしたらいいのかわからない、そんなことを言わないで欲しいと願った。
 けれどアシュラはやはり優しげに笑って言った。

「…もうすぐ君の迎えがくる。君と旅をする仲間がね。そこのトランクを持っていきなさい。君に摂らせたのと同じ濃度のリネと、記憶の羽が入っている」

 アシュラの目線の先を追うと、大型のトランクがあった。

「けれど忘れてはいけない。リネは君の身体を回復させるわけではない。ただ誤魔化すだけだということ」
「…どうしてそんなことしてくれるんです?」
「君がそれを知る必要はないし、知って欲しいとも思わない。私がそうしたいからそうしているだけだよ」
「納得できません…アシュラ王…あなたは」
「王ではないよ。この世界ではね」
「…セレスをご存知ですか?」
「知っているとも」
「あの人は水底で今も眠っているはずです」
「眠っていても夢は見るからね」
「別の世界とはいえ、オレはいつか、貴方の魂を手にかけるかもしれない存在です…そして…王を狂わせた存在です」
「自分の責にしてしまうのは君の悪い癖だね。いろいろなことが重なり合って、たまたまそうなっただけのこと。誰が悪いという的確なものなどないよ。無責任な言い方に聞こえるだろうけれどね」
「どこまで先を知っていますか?オレは王を殺してしまうんですか?」
「ファイ」
「オレの体質に合わせたドラッグを作るために、どれだけの人が死んだんですか?どうしたら貴方は平穏に生きられるんですか?違う世界の貴方まで不幸にしてしまった罪を、どうして償えば、」
「背負いすぎてはいけない。私の責は私のものであり、君のものではないのだから」
「原因が自分にあるというのはわかりきっているんです、ずっと……ずっと」
「ファイ」
「どうすれば止まりますか?オレがファイを諦めたら?そうしたら止まりますか?みんな幸せになれますか?なにもなかったみたいに」
「セレスの王は君を愛していたよ」

 いつの間にかファイの目の前に歩いてきたアシュラが、俯いて問い続けるファイを抱き締めた。
 まるで何かから守られているような温もりに、『帰りたい』と思ったけれど、口には出さなかった。

「君は愛されているよ」
「オレは…誰も愛していません。王も、誰も、」
「愛せないと思い込んでいるだけだ。自分にその資格がないのだと、君自身がそれを許せないだけのこと。君は誰よりも愛情深い人だよ」
「…貴方の魂はどこにいてもオレを救ってくれるんですね」
「君がこの言葉も、何もかも、信じられなくても」
「貴方はオレに何をして欲しいんですか…」
「幸せになって欲しいだけだよ」

 アシュラの指が、ファイの顎をとって軽く上向かせる。
 ファイは観念したように、アシュラと視線を合わせた。
 優しい眼差しに、万華鏡を見ているようなぐらぐらとおぼつかない錯覚を覚える。
 何かが薄れてぼやけていく感覚があった。
 地上から切り離されて分裂していくような、不可解な感覚。

「君が私を忘れてもね」

 そこで、ファイの意識は強制的にシャットダウンされた。










end

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