プロポーズ10題sideC

□大好き
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「これ、高野に返しておけ」
横澤は銀色のそれを、机の上に置いた。
もう何年もいつも持ち歩いていたそれは、小さくカタンと音を立てた。

日和が同じ学校の生徒にストーカーまがいの行為をされていた。
しかもそれを気づくこともできず、日和が相談できないような雰囲気を出してしまった。
そのことを横澤は心から悔いていた。
高野の異動に思いのほか動揺した自分が許せない。

桐嶋、高野、そして日和。
知り合った時期も自分との関係も違うから、誰の方が大事だとは軽々しく言えない。
強いて問われれば、誰のことも大好きなのだと答えるだろう。
だが一番注意して気にかけるべきなのが日和なのは間違いない。
桐嶋も高野も男であり、もういい歳の大人だ。
だけど日和はまだまだ成長途中の子供であり、ストーカーなど理不尽な暴力の前ではか弱い少女なのだ。
そのために横澤はある1つの決断をした。

横澤はそれをするために、エメラルド編集部に来た。
かつて愛した男が座っていた席には、今は羽鳥が座っている。
そのことに一瞬だけ感じた胸の痛みは、寂しさであり未練ではない。
恋心ではなくて友情で、高野がいないことにちょっと感傷的になっているだけだ。
それが完全な本心かどうかは自分でもわからないが、そう思い込むことは難しくなかった。

「これ、高野に返しておけ」
横澤は銀色のそれを、机の上に置いた。
もう何年もいつも持ち歩いていたそれは、小さくカタンと音を立てた。
その机でノートパソコンに向かってデータを打ち込んでいた律は、驚いて顔を上げた。

「お疲れ様です」
横澤に気づかず仕事に集中していたらしい律が、一拍遅れて挨拶をした。
正直言って少々間が悪い。
一大決心とまでは言わないが、一応横澤的には儀式のような気持ちもある。
キョトンとした表情で見られるのは、何とも不本意だった。

「これって。横澤さん!」
それでも横澤が置いたそれを見た瞬間、律の表情は引き締まった。
それは高野の部屋の合鍵だった。
何も言わなくても、それが何なのかは律にも伝わったようだ。

高野ではなくて律に鍵を返すことには、横澤なりの考えがある。
高野の新しい編集部に顔を出すのは、何となく躊躇われた。
まったく関係ない場所に顔を出すのは、いかにも特別な意味があるような感じがする。
だが高野をどこかに呼び出すのは、もっと抵抗があった。
わざわざ呼び出して合鍵を返すなんて、安っぽいドラマみたいではないか。

それならばいっそ律に渡してしまえばいいと閃いた。
律ならば横澤のテリトリーであるエメラルド編集部にいるだろう。
それに過去に律には嫉妬から、風当たりを強くしてしまった時期もある。
わだかまりをチャラにして、これからの高野と律の関係を祝福する。
そんな意味を込めることができると思ったのだ。

「いろいろ大変だったが、頑張れよ」
階段の事故や原稿の盗難など、律を見舞った災難を労う言葉だ。
高野との事は関係なく、これからは1人の編集と営業として接する。
そんな意思表示もこめたつもりだった。
横澤はそれだけ言うと、さっさと踵を返した。

「あ、ありがとうございます。」
困惑したような、それでいてどこか嬉しそうな律の声を背中に聞いた。
だが横澤は振り返ることなく、逃げるようにエメラルド編集部を離れた。
律だけでなく、エメ編全員の視線を背中に感じたからだ。
何とも自分らしくない行為に顔が赤面しているだけは、絶対に見られたくない。
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