ーーまあなんと言うか自由な両親だった。それとも仕事の虫と言うべきか。

「今度は長期滞在になるから!」と言われて拒否する間もなく日本へと連れてこられたのが約二年前。
あんた達の長期ってこの程度かと突っ込みたくなったのがそれから二ヶ月後。
家族揃って日本で暮らしたのはたったそれっぽっちの間だけ。

「あの、また引っ越しなんだけど…」と言いづらそうに始めた両親に僕は思いっきり呆れてしまった。
今度はどこだ、南か北か。あんたらは僕に何ヵ国語覚えさせる気だと。

若い内から脳細胞を酷似するのに疲れた僕は、「行くなら二人でどーぞ」という結論に至り、数日間に渡る話し合いの末日本での一人暮らしを勝ち取った。というか、二人とも忙し過ぎて全然帰って来ないから元から一人暮らしみたいなもんだった訳で。

あれから二年、久々に会った両親はこう言った。

「私達と一緒に暮らそう。帰ってきてくれないか」

ーー父親はまるで浮気して出て行った妻に復縁を懇願するように。

「やっぱり家族は一緒に生活するものよ。母さん家事だって頑張っちゃうわ」

ーー母親は親子の情に訴えかけるように。

そんな事を言われても僕は女でもなければ妻でもないし、家事だってその辺の女の子よりもよっぽどこなせる筈だ。何せやらなきゃ死ぬという状況だったから。本当に息子を心配するなら家政婦くらい雇うべきだっただろう。……まあ、今更邪魔なだけだけど。

だから僕はそんな誘いを一言で切って棄てた。

「は?やだよ」と、シンプルに。

それから散々嘆かれたものの、僕の意思を変える事は不可能だった。いやもう本当全然、仕送りだけしてくれれば別にいいので。

「あのさあ、僕だってこっちで友達出来たし。今更そっちの都合で引き離されたくないんだけど」

学校休んでまで家族旅行に付き合ってんだから、それで満足してくんない?と続ければ両親は遠い目をして項垂れた。「どうしてこんなに冷淡な子に育ってしまったんだろう」なんて。
どう考えてもあんたらの教育の賜物です、としか言い様がない。グレてないだけ僕は偉いと思う。

別に両親が嫌いな訳じゃない。
親としてはまあ、どうかとは思うが尊敬はしている。
ただ、単純に優先順位の問題だ。僕は日本を離れたくはなかった。それは勿論言った通り友達の事もあったけど。

日本を離れる、と聞いた瞬間思い浮かべた顔は友達と呼称するべきか定かではない女の子の顔だった。

何となく、寂しがるような気がした。僕が居なくなったら。本人が素直に寂しいだなんて言う訳はないにしても。

何せその子は、稀に見る意地っ張りだったから。




僕の始まりは多分こんな感じだったと思う。








ブラック・クラック








「お、渚!カノジョが走っとんで〜」
「は?カノジョ?カノジョって誰?」
「ばっかお前、惣流に決まってんじゃん!」

ーーまたそれか。

体育の授業中、休憩と称しつつ適度にサボりながら女子の短距離走を眺めていた時に鈴原君と相田君にそう言われて僕はうんざりしてしまった。だから僕は別に惣流と付き合ってもいなければ付き合う予定もない。ただの友達……というか、クラスメイトだ。

二年に進級してから、やたらとからかわれる事が増えた気がする。転校当初は同じ転校生同士という境遇からか二人で話をしててもこんな風に邪推される事はなかったのに。
確かにうんざりはしていたものの、まあ、僕と惣流が彼らに馴染んだ証みたいなものかもしれないと思えば本気で怒る気にもならない。彼女の方がどうかは知らないが。

「じゃあもう僕はそれでいいけどさ。惣流には言わない方がいいよ、多分凄い怒るから」
「なんや、あっさり認めおって。からかい甲斐のないやっちゃなあ」
「ムキになったら君達を喜ばせるだけだしね。……あ、ほら鈴原君のカノジョ走ってるよ。応援してあげれば?」
「んなっ!お、おまっ……い、イインチョは別に……」
「別に洞木さんだとは言ってないけど」
「な、渚ぁっ!!」
「ははっ!トウジ、してやられたな!」

僕と鈴原君のやり取りに相田君がからからと笑う。彼らは単に面白ければ矛先なんて誰だっていいのだろう。僕もまた同じように笑いながら茶々を入れる。

何故かふと漏れたため息に、苦笑いしながら見ているだけだったシンジ君が未だじゃれあっている二人には聞こえない程度の音量でそっと僕に話しかけた。

「……でもまあ、言われてもおかしくはないと思うよ」
「は?なんで?」
「渚、アスカのこと見すぎ」

それに僕は驚いて、思わずシンジ君を凝視してしまう。さっぱりちっとも、自覚なんてなかったからだ。

「……そんな見てる?」
「見てるよ。ぼーっとしてるな、って思ったら大体は」
「うわ。ホントに?怖っ」
「自分のことだろ。………まあなんていうか」

お互いさまだとは思うけど、と続いた言葉に首を傾ける。それって一体どういう意味だ。

「シンジ君も惣流のこと見てるってこと?」
「…………あのさ、渚。お前バカだろ」

思い浮かんだ結論を口にすれば辛辣な言葉を頂いた。

と、そこで何故かプロレスごっこに発展していた二人が乱入してきて話はうやむやのまま終わってしまう。
僕としては多少参ったな、と思いつつもそこまで深刻ではなかった訳で。

しかしなんでまた惣流ばっかり見ちゃうかな、とは一応疑問に感じてはいた。なんというか、反応が面白いのでついちょっかいをかけてしまう自覚はある。

だけど、好きかどうかと聞かれるとよくわからない。
そりゃ、好きは好きだけど。言ってしまえば僕は大抵の人は嫌いじゃない。だから恋愛的にどうこう言われても余りピンとこないのだ。
とりあえず、一番話す女の子なのは間違いないだろう。クラスの女の子の中で誰が一番好きかと言われたらきっとそれも惣流だ。

だからと言って恋をしているかどうかは自分でも不明だった。多分元々そういうのには疎いから。

というか、今のままで充分楽しいし。喧嘩友達のような関係をそんな曖昧な感情で壊してしまうつもりはない。

だからつまり、友人達から持ちかけられる『そういう話』は、僕にとって厄介なもの以外の何でもなかった。



***



それから暫くして、偶然惣流と二人で帰る機会があった。
珍しくお互いに一緒に帰る友達もいなくて、微妙に暗くなり始めていたから僕が一方的に彼女について行く事に決めただけだったけど。別に拒否されないだろうとは思っていたから。
予想通り惣流は一言二言とりあえず文句を言っただけで、ついてくるなとは言わなかった。

随分前から気付いていた事だ。二人きりだと惣流の態度は微妙に和らぐ。
普段は全く可愛くないその口も、他人の視線がなければ比較的大人しい。本人に自覚があるかどうかは知らないがーーというか多分ない。ので、僕もそれに対しては突っ込まないようにしている。言ったら恐らく「バッカじゃないの!自惚れてんじゃないわよ!」とか言って怒鳴り出すだろう。

怒ってる顔も、別に嫌いではないけど。大人しい惣流はレアなので。

ーー流れで親に「帰ってこい」って言われた事を話したら、案の定惣流は目に見えてしょんぼりした。

というか、思った以上に。やっぱり拒否しといて正解だった。
そんな顔が面白くて、珍しくて、僕が居なくなったら寂しい?と聞けば途端に真っ赤になって怒り出す。

そういう風に表情をころころ変えるから悪いんだ、と思った。だから僕はこの子に構いたくなってしまう。次はどんな顔をするのかな、と。
そんな好奇心旺盛な僕の性格が災いしてあらぬ誤解を受けてしまっているにしても、興味を引くような行動を取る惣流にも非があるような気がしないでもない。

何となくお互い無言になって、ふと隣を見れば茶色とも金色とも言えない不思議な色合いの髪がさらさらと揺れていた。ただ純粋に、綺麗だな、と考える。二年前、初めて会った時も同じことを思った覚えがあった。

惣流は、見た目だけは間違いなく美少女だった。確かあの時僕はその容姿と口調の荒さのギャップに面食らった筈だ。
そして、急激に彼女が気に入った。ただ綺麗なだけだったら大して興味も湧かなかっただろう。綺麗だね、可愛いね、はいそれで終わり。

でも惣流は綺麗なだけでも可愛いだけでもなかった。素直じゃない所も何だかんだで優しい所も、意地っ張りな所だって惣流の魅力だと思う。

だから、今僕がこの国の大多数の人とは違う惣流の色を見て綺麗だな、と感じる理由は、昔とは微妙に違っている。
惣流だから。惣流の髪だから綺麗だ、と思う。
何だか愛着が湧いているというかなんというか。他の人がこの髪を持っていたって僕は触りたいとは思わないだろう。

余りじっと見ていると照れ隠しに殴られかねないので、ぱっと視線を剥がして口笛を吹く。
触りたいからといって簡単に触れるものでもない。こんな事を考えているなんて鈴原君達にバレたら一層からかわれるに違いなかった。二人で帰った事を知られただけで騒がれそうだし。

僕は別にいいんだけど。別に他に好きな子や付き合ってる子がいる訳でもないから。
別にそんなんじゃないって、好き同士な訳じゃないって事は僕と惣流が知ってれば周りからどう言われようと構わない。

でも、惣流は多分怒るんだろう。僕と違って他人の視線や評価を気にする子だから、自分の気持ちを勝手に決めつけられるのは我慢ならない筈だ。

だからまあ、彼女の為にも誤解が広まる前に何とかしたいとは思う。思うけど、だからと言って今この場で惣流を一人で帰らせようとは思わない。
だって危ないし。黙ってればただの美少女だから。

ーーと、そんな事を考えていたら突然髪を引っ張られた。

「いだっ!……………え、何?」

勿論僕はびっくりして惣流を見る。黙ってれば、とか考えてたのを気づかれたのかと。
冷静に検討すればそんな訳がないに決まっていたのに本気で焦ってしまったのは、僕の良心が彼女に後ろめたさを感じていたからだろう。髪に触りたいとかそんな欲求も含めて。

けどどうしてか惣流までもが慌てた様子で僕の髪を掴んでいた手をぱっと離したものだから、訳がわからなかった。いつもは僕を殴ろうが蹴ろうが顔色一つ変えないくせに。

そして顔を背けながら彼女が発した一言に、僕は「それだ!」と思った。

曰く、「僕の髪の色はこの国じゃ目立つ」らしい。

正にそれだ。しっくりきた。
何がって、僕がついつい惣流を目で追ってしまう理由。

彼女が言うように、僕らはどうやったって日本じゃ目立ってしまうのだ。何と言っても大体の学生は黒髪だから。
そんな中に違う色がぽつんと存在すれば、そりゃあ見るだろう。

兼ねてからの疑問が解決した事に上機嫌になった僕は、帰り際惣流に「また明日」と言われてバカみたいにぶんぶんと手を振った。どさくさに紛れて髪に触る事も出来たので、尚更満足だった。

一人になった帰り道でなるほど、と改めて納得する。
髪の色は盲点だった、と。






次の日、意気揚々と疑問の解消をシンジ君に話すと彼は思いっきりバカを見る目で僕を見た。というか、普通に「やっぱりバカだろ、渚」と言われた。

「なんでさ」と僕が不満を露にするとシンジ君はうんざりと肩を竦める。

「髪の色でアスカばっかり見てるって言うんなら、綾波はどうなるんだよ」

ーーうん、中々痛い所をついてくれる。
綾波さんの髪は薄い、空のような青だ。確かに惣流と同じくらい目立つだろう。

「それはほら、僕と似てるし。白に近いとことか。惣流は全然違うからさ」
「似てない。綾波の髪の方がずっと綺麗だし。一緒にするなよ」
「……そうだね。ていうか、僕が綾波さんの事ばっか見ててもいいの?シンジ君怒んない?見てもいいなら見るけど」

冗談混じりに言えばシンジ君の目がぎろりと剣呑な光を放った。綾波さんの話になると彼には全然冗談が通じなくなるらしい。
身の危険を感じた僕は肩を竦めると話を戻そうと画策する。何だっけ、そうだ、惣流の話だ。

「とにかく、原因もわかった訳だしここらで妙な誤解を消しとこうと思うんだ」
「はあ?どうやって?」
「とりあえず出来るだけ疑われる要素を無くそうかなって」
「……具体的には?」
「惣流と話す回数を減らす。二人でいるだけでにやにやされるしさ」

僕の提案を聞いていたシンジ君は暫く考え込んだ後、やがて怪訝そうな顔つきになる。

「何で唐突にそんな事言い出したのさ。渚、今まで全然気にしてなかったじゃないか」
「え?ていうか、今でも僕は気にしてないけどね。でも最近、言われる回数増えてきただろ?僕が良くてもあっちが可哀想だから」
「あっち?」
「惣流だよ」

こういう噂とか誤解とか一番嫌いそうだからね。と僕は続けた。シンジ君もそれには納得して、「確かに嫌いだろうけど」と呟く。

「それに、誤解されてるの知ったら暴れだしそうだしさ」

けらけらと笑ってもシンジ君はどこか浮かない顔で、それでも最後には「まあ渚がそれでいいなら」と頷いてくれた。勿論、僕はそれでいい。だって僕と惣流は本当の本当に好きあってなんかいないのだから。

「て訳で、シンジ君も協力宜しく」
「は!?何を!?」
「別に大した事じゃないよ。僕がうっかり惣流のこと見てたらこっそり教えてくれればいいだけ」
「……見るくらい勝手にすればいいのに」
「鈴原君達は気にするだろ?僕も気を付けるけど何か無意識らしいから一人じゃ難しいと思う。……それに、」
「それに、何だよ」

ーー見てたら多分構いたくなるから。その予防の為にも。

正直にそう言えばシンジ君は心の底から呆れた顔をする。
だって、そういう欲求は我慢するのが難しいんだよ。一人で何とか出来るなら最初から何とかしてる。無理そうだから協力を仰いだ訳で。

そんなこんなで渋々ながらも引き受けてくれた友人に多大な感謝をそこそこの言葉で告げると、彼はぽつりとこう言った。「余計に拗れるような気がするけど」と。

それの意味はさっぱりわからない。
余計にも何も、まだ何一つ拗れてなんかいない筈だ。少なくとも僕はそう思っていた。



後から思い返してみれば、大層鈍かったんだろうなあ、としみじみ思う。
つまり僕は、この時シンジ君の助言をちゃんと聞いておくべきだったのだ。

そう気付いたのは、全身墨汁まみれになってからだったけど。



***



幾ら鈍感だという自覚がある僕でも、流石に途中で気付いた。
明らかに重症だと。

「…………渚」
「………え?あ、また?」

シンジ君に小声で呼ばれてやっと我に帰る。これで今日はもう三回目だ。これは疑われても仕方ないと納得するレベル。
惣流から距離を置くようになって二週間、僕の病はちっとも改善に向かう様子はない。というか、悪化している気がする。約束を律儀に守っていちいち教えてくれるシンジ君も明らかにうんざりしていた。

いや、僕だって。こんなに酷いとは思わなかったんだから仕方ない。

無理矢理ちょっかいかけるのを我慢している所為か、ここ最近は本当にまずいと思う。なんかもううずうずする。怒鳴り声でいいから聞きたいとか思ってる辺り、本気でまずい。これじゃまるで変態だ。

「………ていうか」

ーーこれってもしかして恋なんじゃないだろうか。

真剣に言えば、シンジ君はこれでもかというくらい脱力した。

「あのさ、渚……」
「バカなのはわかってるから言わなくていいよ」
「バカだろ」
「言わなくていいって言ったのに」

言いたくもなるよ、とぼやかれて、まあそうだろうな、とは思う。散々周りから言われても否定してきたくせに、今になってやっぱそうでしたなんて間抜けにも程がある。
だけどまだ確定した訳じゃない。大体にして全然納得が行かない。

「だってさぁ、なんで惣流?」
「僕が知る訳ないだろ。自分の胸に聞けば」

聞いてみても「わかりません」としか思わないからどうしようもない。

「何かきっかけがあった訳でもないし。意味がわからない」
「もう諦めて普通に話せばいいのに。誤解じゃないなら誤解じゃないで開き直ればいいだろ」
「………それはまだ確定じゃないから保留にしとくよ」
「……拗れても知らないからな。絶対そろそろ爆発する」

それってあれだろうか。ストレスでシンジ君が爆発するって事か。
それは可哀想なのでそうなる前には解決したい所だ。

ぼんやりしている内にまた僕の目は惣流へと向いていたらしく、ばしっと背中を叩かれて呻く。最近やり方が乱雑になりつつあるのはシンジ君の爆発の予兆なのかもしれない。

「そういえばさ」

思い出して呟く。

「惣流も僕のこと見てるよね」
「……えっ!?」

何気なく言ったつもりだったのに、何故かシンジ君はぎょっとして僕を凝視した。「気付いてたんだ」と呆然と言われてこっちまで驚く。そんなに驚く事じゃないだろう。

「だって何回も目合うし。流石に僕でも気付くよ」
「……で、アスカが何で渚を見てるのかは理解してるの?」
「髪の色だろうね。だから言っただろ、黒の中に違う色があると目が行くんだって」

あれじゃその内惣流まで囃し立てられそうだ。
ああもう、めんどくさ。
染めようかなこんな髪。

「………………………」

彼は半眼になるとぐったりと肩を落とし、やがて「もういい。疲れた。渚には何も期待しない」と疲労を滲ませて呟いた。

だって。

「………本人にそう言われたし」

だからやっぱりそうなんだろう。つまり僕のこの訳のわからない病気も恋の所為なんかじゃない。目立つんだよ、綺麗だから。それだけだ。

と、この時点では僕はそう結論を出していた。本気でそう思っていた。
実際この時は自分の事だけで一杯一杯で、僕が勝手に避け始めた事を惣流がどう思ってるかなんてちっとも考えてなかったのだ。


そして、それから数日も経たない内に事件は起きた。例の、墨汁事件。

爆発したのはシンジ君じゃない。僕が視線を反らし続けた相手、ここ最近全然話をしていない女の子。
ーーつまり、他でもない惣流だった。









そりゃあびっくりした。
だっていきなり頭に液体が降ってきたんだから。
その時僕は呑気に友人達とバカ話をしていて、背後で交わされていた女の子達の会話なんてこれっぽっちも知らなかった。

正面に座っていたシンジ君が焦ったように「渚っっ!!!」と僕の名前を呼んだ時にはもう手遅れだった気がする。

突然滴ってきた謎の液体に触れてみればそれは水のように透明ではなくて。
何処かで見たような真っ黒な液体。それがびしゃびしゃと音を立てながら頭上から落ちてきた。

さっぱり状況が把握できなかった僕は左右を見回し愕然としている友人達の顔を見て尚更困惑した。彼らの悪戯ではないらしい、と。じゃあ一体誰の仕業なんだろう。
最後にもう一度シンジ君を見ると、彼は「だから言ったのに」と言いたげにがっくりと項垂れていた。

そこである程度は察したのだ。
もしかして、惣流がやったんじゃないかって。

そしてやっぱり、振り返ればそこには惣流がいた。鈍い音を立てて彼女の手から何かが転がる。
反射的にそれを視線で追いかけると、その正体はすぐに明らかになった。惣流が投げ捨てたのは空になった墨汁の容器。

なるほど、と納得する。

僕が浴びせられたのはどうやら墨汁だったらしい。どうりで黒い訳だ。透明だったら字が書けない。

確かに自分の状態は理解できた。
けれど、どうしていきなり彼女がこんな暴挙に出たのかまではわからなかった。

僕は呆けたまま視線を上げ、彼女を見る。一瞬映った顔は確かに怒りに満ちていたのに、僕が名前を呼ぶと突然それは酷く歪んだ。

ーー泣きそうに。

そしてそのまま、惣流は教室から出て行ってしまった。






教室中が静まりかえる。ぽたぽたと、僕の髪から真っ黒い墨が滴り落下する。

一番最初に冷静さを取り戻していたシンジ君が鞄を漁りながら呆れたような、それでいて若干労りを含んだような声で問いかけてきた。

「………渚、平気?」
「……うん、まあ。微妙に目に入ったけど」

呆然としたまま答えて、僕も徐々に意識を覚醒させる。どう考えても立ち尽くしてる場合じゃない。

「………シンジ君」
「………何だよ」
「次の授業、サボる」
「うん、わかってる」

ため息混じりの相槌に笑みを返して額から垂れてきた墨汁を腕で拭うと、それから、と続けた。

「惣流も休むって先生に言っといて」

シンジ君は苦笑いをして、けれど早く行けとばかりに手をぱたぱたと振る。
本当にいい友達を持ったなあ、なんて思いながらも走り出した。明らかにクラス中の注目を浴びている気配はしたものの、そんなものは最初からどうだっていい。
他人の事なんて、どうでも。

でも、どうやら僕は惣流を他人にはしたくないらしい。
例えどんな関係であれ。



確かに僕は惣流の笑った顔も怒った顔も好きだけど。

ーーさっきのような顔だけは、どうにも嫌いみたいだった。



***



教室を飛び出して、颯爽と走りながらも惣流の性格を分析する。
そして、どうせ誰からも気付かれないような場所に隠れて縮こまっているんだろうと当たりをつけた。校舎裏とか、木の影とか。性格上家には逃げ帰っていないだろう。どう足掻いても彼女は意地っ張りで、プライドが高いから。





僕の分析力も中々捨てたもんじゃないらしい。
それはもう呆気なく、三ヶ所目でその姿はあっさりと見つかった。裏庭の隅。丁度影になるその場所で、思った通り踞って膝に顔を埋めている。
まだ学校に居るだろうと確信していたくせに、惣流を見つけた瞬間酷く安心した自分が我ながら不可解だった。

軽い調子で声をかけても彼女は顔を上げない。
もしかして泣いてるんだろうかと訝って、顔を見たいとは思ったものの身体中墨汁まみれだったので諦めるしかなかった。下手に近付いたり触れたりすれば、惣流まで汚れてしまう。

とりあえず理由が聞きたくて、出来れば顔も見たくて、何かを言おうとすれば彼女の方から喋りだす。半分涙声のまま。

ーーそして断片的に語られたあらましに、僕は笑った。それはもう、盛大に。

僕との事をからかわれたらしいのはわかった。それはいい。危惧していた通り、色々と邪推された惣流は只でさえ人より短い堪忍袋の緒をぶちんと切ってしまったのだろう。

で、彼女もまた僕と同じ結論に至った訳だ。無意識に見てしまうのは他人と違う髪の色の所為だと。
だというのに周囲には妙な勘違いをされてしまったから。怒りやら何やらを最終的に僕の色素のない髪へとぶつけた惣流は、沸点の低さも手伝ってかあんな行動に出たという事。

まあ、気持ちはわからないでもない。
とどのつまり、他に怒りを向ける場所がなかったんだろう。

ーーだからと言って。

「普通さあ、白いからって墨汁かける?それで黒くなるって?」

そんな訳はないだろう。確かに一時的には黒くなるかもしれないけど、シャワーを浴びれば元通りになってしまうのに。

幾ら冷静さを欠いていたとはいえ、普通そんな手段に出るだろうか?
どうしてこの子はいちいちこんな面白い事ばかりしてくれるんだろう。

どうしても込み上げるおかしさを堪えられなかった僕は唖然とする惣流に構わずひたすら笑い続ける。だって、そんな理由だとは思わなかったから。
普通に何か怒っていて、たまたまそこにあった墨汁を使って怒りを表したとかそんな感じだと思っていたのに。

というか、正直気付かない内に何かをしてしまって嫌われたのかと思ってた。勘違いだったようで何よりだ。
そんな安堵も手伝って尚更笑いは収まらない。

どうやら僕が怒っていると思っていたらしい惣流はおずおずと疑問を口にする。らしくもなくしおらしい態度で、どうして怒らないのか、と。

そしてやっと僕は彼女に真相を話した。久しぶりに正面から顔を見たな、なんて呑気な事を考えながら。
きっとからかいの内容は僕が受けていたのと大差ないだろうとは思っていたけれど、やっぱりその通りみたいだった。多分、良くある話なのだろう。僕達二人に関しては全くの濡れ衣に他ならなかったにしても。

僕は久々に惣流とちゃんと話した所為なのか、妙にすっきりした気分になる。やっぱり恋愛感情うんぬんは気のせいだったんだろうと納得した。

だって惣流も僕と同じだったんだから。
外国産まれなのが関係してるかどうかは知らないけれど、黒の中に別の色があればつい見てしまうものなのだ。そうでなければ僕達二人して似たような誤解を受けている理由に説明がつかない。

僕が幾ら別にいいと言っても惣流は随分と今回の件を気にしているようだった。本当に、これっぽっちも傷付いたりしてないので申し訳なさそうにされても逆に困る。

いやほんと、凄い面白かった。久々に大爆笑出来てどっちかっていうと得した気分だ。
だけどまたこんな事があって惣流が落ち込むのは可哀想に思えて、面倒だけど髪を染めようと思った。
それで万事解決なら別にいい。自分の髪に拘りがあった訳でもない。

ーーただ、彼女がならば自分も染めると言い出したのだけは看過できなかった。それは、その髪は、僕のお気に入りなのだから。

なので素直にそう言った。
誓って他意はない。後から考えてみれば普通に口説き文句のような気もしたけれど、この時は本当にそんなつもりはなかったのだと言い切れる。

「つい視線向けちゃって自分でもうんざりするんだけどさ。僕、君の髪好きだ。色も細さも全部。自分では見えないかも知れないけど、風に揺れると太陽の光がきらきら反射して凄く綺麗だから。黒くしちゃったら勿体ないってこと」

それが切欠だったのかは知らない。
でも多分、そうだったのだろう。

先に言っておくと、僕が彼女への気持ちを友情の一種だと思えたのはーー思い込もうとしていたのはここまでだ。

この直後、僕はとうとう観念した。

というか、誤魔化していただけでやっぱり最初から気付いていたのかもしれない。
楽な立ち位置を、今までの関係が壊れてしまう事を恐れていたのはきっと僕の方だ。



だけど気付かざるを得ないだろう。あれは反則だ。

墨汁まみれの髪を水道で洗ってこようと背を向けた僕を引き留めたのは、彼女の声じゃない。
体温だった。

背中をぎゅっと引っ張られた僕は多少よろめいて、けれどなんとか踏み止まる。どん、と衝撃。
惣流の手が、額が、身体がワイシャツ越しに僕と触れ合って。


その瞬間、正直「あ、これ駄目だ」と過った。


信じられないくらい簡単に、すとんと胸に落ちてきたからどうしようもない。今までの葛藤はどこ行ったと疑問が生まれるくらい一瞬で完全に理解した。自分の意思ではどうにもならない生物の本能的に。

僕はどうやら惣流を女の子として好きらしい、と。

駄目も何もない。言ってしまえば随分前から僕はとっくに駄目だったという事だ。謎の病を発症した時点で。

ーーつまり、端的に言うと恋なんだろう。

とくに切欠もなければ理由もなくとも僕の心臓の音が確かにそう告げていた。
それが洒落にならない程煩かったので、このまま死ぬんじゃないかと思った。速度も尋常じゃない。この分じゃ確実に寿命は縮まっただろう。

そうしてる内に今すぐ思いっきり抱き締めたいとかそんな風に脳みそまでイカレてしまったものだから、僕はとうとう諦めて、ーーというか考える事を放棄して、自らの欲望に従い惣流を抱き締める事にする。
どういう訳か彼女らしくもなく一切の抵抗がないのが不可解ではあったが。

鈴原君、相田君、それからシンジ君。
ごめん、全然誤解でも何でもなかった。

なんというか、確かに悔しくはあるんだけど。

自覚してしまえばどうにもならないので開き直って僕はまた口を開く。
この先の展開なんて予想もつかない。自分自身の事ですら。

それでも僕は言った。
出来るだけ平然と聞こえるように。

「…こんな状態だしさ、僕もう帰るけど」

腕の中の女の子はぎゅっと僕のワイシャツを握る。

「………一緒に帰る?」







惣流は、やっぱり何も言わなかった。

代わりに小さく、こくりと頷いただけで。









(………なんだこの可愛いいきもの)








***

〈ブラック・クラック〉

視点を変えると台無しになる。



















更に台無しにしたい方向けのおまけ。かなりやっつけ感が漂ってます。どう見ても別人ですので「誰こいつら」と思いつつifとしてお楽しみ下さいませ。ちなみに青春要素は皆無です。↓

(ブラック・ブラック)


別名男の子暴走物語。

160713.

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