もしかすると、気付いている人間はそう多くはないのかもしれない。そのくらい些細な変化だった。
けれどヒカリはアスカの親友だったから、いつも側にいたから、気付いてしまった。一つの日常とも言える風景が消えてしまった事に。

お昼休みに入ってから随分と時間が経っていた。食べるのが早いとは言えないヒカリですらも食事を終え、お弁当箱を包みにしまっているというのにアスカの食は進んでいない。
彼女の食べ掛けのお弁当は半分程度から減るのを止めてしまっている。いつもそれが生き甲斐だと言わんばかりに精力的に、嬉しそうに食べていたのに、今のアスカにはお弁当なんてどうでも良さそうだった。

アスカがぼんやりとーーそれでも寂しそうに眺めているのは、教室の一角。そこにはやはりカヲルの姿がある。

「……ねぇ、アスカ」

ヒカリは堪えきれずに口を開いた。明らかに元気を失ってしまっている友人が心配だったのだ。アスカはやや遅れて、「んー?」と気のない返事をする。視線は剥がさないまま。
躊躇はあった。自分が口にしてしまう事で余計に苦しめてしまうのではないかと思った。

それでもヒカリは、何かを取り戻そうとした。自分がまるで部外者でしかないと知っていながら。

「……渚君と、最近全然話さないのね」

無表情に徹していたアスカの表情が、ぴくりと動く。ヒカリは痛ましげに瞼を伏せた。やっぱり勘違いなんかじゃなかった、と。

「……別に、話してるわよ。気の所為じゃない?」
「うん。……でも、前みたいには話してない」

カヲルがアスカにちょっかいをかけてくることもない。ここ最近じゃ、じゃれあいのようなやり取りをしている所すら見なくなってしまった。

「………喧嘩したの?」
「喧嘩なんて、毎日してたわ」

くだらない事で怒ったり、怒鳴ったり。二人のやり方は決して穏やかだった訳ではない。だけどあれは、こんなに寂しい光景じゃなかった筈だ。

「……飽きたんでしょ、どうせ」
「え?」
「あいつ、ガキだもん。私にも飽きたのよ」

机の上にはプリンが置かれている。昨日も一昨日も、その前も。
ただ置いておくだけで、アスカは口をつける素振りを見せない。カヲルがそれを奪いに来る事もない。

「どうでもいい、あんなやつ」

言いながら、それでもアスカは視線を反らそうとはしなかった。何だかその表情が泣き出しそうに見えてヒカリは俯く。
前と同じように好きなの、なんて聞けなかった。アスカもヒカリも、ーーもしかするとカヲルですらそうなのかもしれない。ただ、誰も何も言葉を生まないまま時間だけが過ぎていく。

あんなやつ、とアスカは繰り返す。
それが嘘である事はきっとアスカ自身が一番良くわかっていただろう。

どうでもいいなんて絶対に思っていない事くらい、ヒカリにだってわかっていたのだから。



***



別に、何があったという訳ではないのだ。
例えば気まずくなるような出来事があったかと聞かれても、思い当たる事なんてない。
じゃあどうしてこんな風になってしまったのか。それがわからないからこそ、尚更どうしようもなかった。そもそもこの状態をどうにかしたいと思っているのかすら自分でもわからないから、余計に苛々するのだろう。

日頃何かと構ってきたカヲルが、話しかけて来なくなった。

それは突然の変化だった訳じゃない。だからアスカだってすぐには気付かなかった。
毎日数えきれない程交わしていた言葉が指で数えられる位になり、三回が二回に、二回が一回にーーといった具合に徐々に、しかし確実に減っていった。今では朝に一言挨拶を交わす位だ。「おはよう」と言われて、「おはよう」と返すだけ。口喧嘩にすらならない。

最初の頃は、話しかけてみようと思ったのだ。けれど何を話せばいいのかわからなかった。
何だっていい筈なのに、今までは話題なんて考えなくても良かったのに。

何かしらのきっかけを探している自分を自覚したアスカはうんざりしてしまった。まるでこれじゃ寂しがっているみたいじゃないか、と。
本当は、特に意味がある訳じゃないのかもしれない。ただタイミングが合わないだとか、気まぐれだとか。
そんなカヲルの都合にいちいち振り回されるなんて御免だった。そっちがその気なら、と意地になって結局話しかけてなんかやるものか、と心に決めて。

ーーそうしている内に、彼との関わりは一層減っていった。もう偶然なんかじゃないと言い切れる程に。

気付かない内に何かをしてしまったのなら、怒っているのなら、ちゃんとそう言って欲しかった。今までみたいに直接、面と向かってはっきりと。

こうなってしまった理由を知りたいとは思う。けれど、知ってどうするんだろうとも思った。
例えばカヲルがアスカの何気ない言葉によって傷ついていたのだとして、本当に自分が悪かったとして。それを知ってどうするつもりなのだろう?
だってアスカは素直に謝れたりなんかしない。ごめんねなんて、きっと言えない。それがアスカという人間だった。どうしようもない意地っ張り。自覚していた所で治らない悪癖。
ならば真相を知った所で意味はないに決まっていた。知らずにいるのと結果は同じだ。

それに、間に誰かを挟めば今でも普通に話せるのだから尚更不可解だった。シンジやヒカリ、トウジやケンスケといったメンバーの輪の中ならばカヲルは至って平然とアスカに話しかけてくる。
ただ、彼が率先して自ら接触してくる事がなくなっただけで。二人きりで会話をする事がなくなっただけで、後は何も変わらない。いつも通り。

ならこのままでいいのだろうとは思う。今までが関わり過ぎていただけなのだろうと。あるべき形に戻っただけなのだ。だから、寂しさだなんてそんな感情は必要ない。

そう納得しようとして、けれど結局失敗に終わっている。カヲルが話しかけてこなくなってから、自分でも気付いてしまうくらいアスカは彼を視線で追うようになってしまっていた。
気にするもんかと思うのに、いつの間にかアスカの瞳はカヲルを映している。完全な無意識化の行為。だから、アスカがどう思っていようと行動には反映されない。
いつも気づけば視線の先には彼の姿がある。そんな自分こそが一番不可解で、腹立たしかった。
どうだっていい筈なのに、どうして。こんなんじゃいつかは周囲にだって誤魔化しきれなくなってしまうだろう。

問われてしまえばアスカはきっと困る。
だって、自分でも理由なんてわからないからだ。
正しく言えば、本当は思い当たる事が一つだけあるのだが。自分が彼の姿ばかりを追い続ける、いとも単純で明確な理由。

けれど彼女はそれをどうしても認めたくはなかった。まだ知りたくはないのだ。 だから、気付かないフリで通すしかない。最後の防壁は余りにも頑なで、どうしようもなく脆い。自分自身には崩せないのに誰かに指摘されてしまえば一瞬で瓦解してしまう矛盾だらけの壁。
多分アスカは、それを恐れていた。必死で目を背けている真実を他人から簡単に暴かれてしまうのが怖かった。

だからこそ決して彼を見るまいと思うのに、アスカの意思とは裏腹にその眼はやはりカヲルを探してしまう。
そうしている内に気付いたのは、今までどれだけカヲルが自分に話しかけてくれていたのかという事だ。
いつも声をかけてくるのは彼の方だった。アスカから話しかけた事なんて殆どない。
そうする必要がないくらい、カヲルはアスカに構いたがったから。用事があってもなくても、周りにどれだけ他の人がいても、いつだってアスカばかりにちょっかいをかけてきた。いつの間にかそれが当然だとすら思っていた。

そんなカヲルを、アスカは拒んだ訳じゃない。鬱陶しそうにしながらもなんだかんだで結局隣にいた。アスカがどんな態度を取ろうとも、いつでも最後にはカヲルは笑っていたから。
彼だってアスカと同じくらい直情的で歯に物着せぬ言い方ばかりするものだから、言い合いになる事だって少なかった訳じゃない。
けれど拗ねたり文句を言ったり、口喧嘩をしたって次の日には元通りだった。カヲルはやっぱりアスカに話しかけてきたし、アスカだってカヲルに応えた。
だから、こんな風になってしまったのは初めてだった。

何度か彼と目が合った事もある。
以前のカヲルであれば、アスカが自分を見ている事に気付けば気安く「何か用?」と話しかけて来ただろう。
でも今は違った。明らかに視線に気付いていても、互いに相手を認識していても、カヲルは何気ない素振りで視線を外す。さりげなく、それでも確実に。

この度にアスカは酷く悔しい気持ちになって、またも「絶対に見るもんか」と決意する。
ーーなのにまたいつの間にか彼の色素の薄い髪や、細い背中ばかりを探している自分に気付いては自己嫌悪に陥る悪循環。何度目を反らされても、何度落ち込んでも、繰り返し。

だって、彼は目立つから。
他の人と違う色を持っているから。

他に理由なんてない。
そうでなければ、そう思い込まなければ、泣いてしまいそうだった。理由なんて、知りたくもなかった。


***


アスカが恐れていた事が起きたのは、それから三日程経ったある日だ。昼休みも残り僅かの、午後の授業が始まる十分程前の事だった。

五限目は習字だったので、アスカは専用のバッグから墨汁や硯などの教材を取り出して並べる。淡々とした事務的な作業の途中で、不意に以前カヲルと習字について話した事を思い出した。

手が汚れるのは嫌だし、こんなもの日常生活で使わないのだからわざわざ授業にしなくたっていいのに。と溢したアスカにカヲルは笑った。僕は意外と好きだけどな、と。
元居た学校ではやった事がなかったから楽しいと無邪気な笑顔を見せる彼に、あの時アスカはやっぱり憎まれ口を叩いた筈だ。
だけど、内心では少し羨ましくもあった。そんな風に何もかもを素直に楽しめるのはカヲルの良いところなのだろう、と思った。自分が随分と捻くれている自覚があったから余計に。

そしてアスカまで感化されてしまったのか、いつの間にか習字が嫌いではなくなっていた。
上手く書ければ達成感を感じたし、この国に自分が馴染んで行くような気にもなって喜びさえ覚えるようになった。

それがカヲルの影響だという事だけはやっぱりどうしても認めたくはなかったが。

そんな風に過去を思い返していた所為で、授業の準備をしていた筈の手が止まっていた。そしてまた気づかぬ内にアスカはシンジ達と何やら笑い合っているカヲルの後ろ姿を眺めてしまっていたのだが、それに気付いたのは彼と目が合ったからではない。

全くの第三者の介入によって、アスカは自分の行動を知った。

「ねぇ、惣流さん」

横からそう声をかけて来たのはクラスメイトの女の子達で。
何度か話はした事があるが、別段親しいという訳でもない彼女達の声にアスカは驚いて肩を跳ねさせる。それと同時にまたカヲルを見ていた自分を知り、慌てて平然を装いながら笑顔を作って応じた。自分が何を見ていたのか、誰に視線を向けていたのかを知られたくはなかったのだ。

「な、なに?」

声は少し上擦ってしまったが、笑顔を貼り付ける事には成功する。アスカの動揺を知るよしもない女の子の一人は声を潜めると、内緒話をするようにーーそして、何処か面白がるような口調でこう言った。

「今、渚君見てたよね?」
「………え?」

ぴたり、と。

アスカの笑顔が凍る。
実際は、混乱の余り表情を動かせなかったのだが。

「やっぱり!ずっと気になってたんだぁ」
「私も!でも違ってたら失礼かなぁと思って聞けなかったの!」

きゃあきゃあと女の子達ははしゃいだように口々に言い合い、勝手に納得し始める。アスカは呆然とそれを聞いていた。ーー何も言えなかった。
自分が隠していたものが露見していたという事実へのショック。それが、アスカの反応を鈍らせる。
笑顔を貼り付けたまま動けずにいるアスカに気付かず、女の子達は更に興奮しながら口を開いた。

「でもね、前からもしかしたらそうなのかなって思ってた!だって惣流さん、渚君といっつも一緒にいるし!」

ーーー………やめて。

違う、と言いたかった。
勝手に決めつけないで、と。なのにアスカの口は動いてくれない。

「渚君、格好いいもんね。ちょっと子供っぽい所もあるけど、男子なんてみんなそんなもんだし!」

ーーーやめて、やめて!!

ぎゅっと唇を噛んで俯く。いつもだったら誰彼構わず怒鳴れるのに。
アスカはただこれ以上聞くのが怖くて、けれどどうすればこの場から逃げ出せるのかもわからなくて、そうしているしかなかった。

「喧嘩ばっかりしてるけど、本当は、」

ーーー言わないで!!!

そこで、近くの席で別の女の子とお喋りしていたヒカリがアスカの異変に気付いた。顔色が真っ青だったのだ。
どうしたんだろうと訝しんだ彼女は友人に中断の詫びを入れ、アスカを囲む女の子達の輪へと近づく。
そして、断片的に聞こえた台詞から内容を察して慌てて「ちょっと、あなた達!」と制止しようとした。

……が、僅かに遅かった。本人に構うことなく勝手に盛り上がっていた少女の一人が、とうとう言ってしまったのだ。

アスカが恐れ、ヒカリが彼女の為に口にしなかった言葉を。


「渚君のこと好きなんでしょう?」


ーーその時、アスカの中の防波堤が崩れた。

その言葉を最後まで聞く事なくアスカは無表情で突然立ち上がり、先程まではしゃいでいた女の子達が驚いたように固まる。立った拍子に椅子ががたりと大きな音を立てたが、今のアスカにはまるで他人事だった。

制止の声を上げかけたままヒカリまでもが固まってしまった。怒りの余りアスカが女の子達を殴ってしまうのではないかと思ったのだ。どうやって止めるべきか、迷いが生じた。

けれどアスカは乱暴に机の上に置いてあった物体を掴むと、女の子達を完全に無視してすたすたと歩き始める。
どうやら冷静であったらしいとほっとしたのも束の間、アスカの持っている物とその行き先に気付いたヒカリは真っ青になって思わず声を張り上げた。

「あ、アスカっ!!!」

しかし、無駄だったのだろう。
ヒカリの声は聞こえていただろうにアスカの足は僅かばかりも止まりはしない。

アスカが他の物に見向きもせずに向かっていたのは、男子達の輪ーーカヲルの所だった。

彼は女子の間であった出来事にはまるで気付かないまま楽しそうに笑っている。アスカに背を向ける形で。
狭い教室の中ではあっという間に距離は縮まり、ぐんぐんとアスカはその背中に近づいていく。

男の子達の中で歩み寄ってくる少女に最初に気付いたのは、カヲルと向かい合うように座っていたシンジだった。
彼は同居人であるアスカに極めて親しげに「アスカ、どうしたの?」と声をかけようとして、けれど彼女が持っている物に気づいて硬直する。



カンカン、と床に何かが転がる音がした。

ーー墨汁の、キャップだった。

次の瞬間にシンジが口にしたのはアスカの名前ではない。
真っ青になった少年が慌てて叫んだのは、彼女の接近にまるで気付いていない友人の名前だった。

「渚っっ!!!」

「ーーーへ?」

遅かった、とシンジは口元を引きつらせる。
ぼたぼたと頭の天辺から何かが滴る感触がして、カヲルはきょとんと目を丸くした。
やや遅れて額から頬へと液体が流れる。その間も絶え間なく上空から水音は続いていた。順序よく頬から首筋へと伝う液体に触れてみると、指先が真っ黒に濡れていて首を傾げる。

黒い。これでもかというくらいに真っ黒だ。

訳がわからなかったカヲルはとりあえず右を見る。ーー隣のトウジがぎょっとしたような顔で固まっているのが見えた。
次に左を見ると、今度は言葉を失ったかのごとくぽかんと口を開けたまま自分を凝視しているケンスケ。
最後にもう一度正面に視線を戻せば、シンジだけが全てを理解したような表情で肩を落としていた。

そしてやっとカヲルは後ろを振り返る。

そこには、静かな怒りを孕んだ顔をしたアスカが無言で立ち尽くしていた。

持っているのは、習字に使われる墨汁が入ったボトル。ーー正しくは、入っていた、かもしれない。アスカが忌々しそうに空っぽになった容器を床に叩きつけた事で、彼は自分がその中身を頭から浴びせられた事に気付く。

つまり、指が黒かったのはあの液体が墨汁だったからだ。
この具合じゃワイシャツはもう使い物にならないだろう。たっぷりとかけられた墨汁は既に背中までをも滴り床を汚している。
妙に納得しながらも何故突然こんな暴挙を働かれたのかさっぱりわからなかったカヲルは目をぱちくりさせながらやっとの事で口を開いた。呆然と。

「…………惣流?」

名前を呼んだ途端、アスカの表情がぎゅっと歪む。そして、くるりと背を向けると突然教室の外へと走り出した。
びっくりしたカヲルは咄嗟に彼女の腕を掴もうとしたのものの、けれど自分の手が真っ黒な事を思い出して一瞬躊躇してしまった。手を握るような真似をすればアスカまで汚れてしまうだろう、と。自分の今の状態が他でもない彼女によってもたらされた状況である事も忘れて。

そうしている内に、とっくにアスカは教室から姿を消していた。

アスカの行動の原因である少女達はどうしたらいいかわからずに顔を見合せ、ヒカリとシンジは拭くものはないかと鞄をまさぐり始める。つい先程まで賑やかだった教室で言葉を発する者は誰もいない。

残ったのは静まり返ったクラスメイト達と、床に虚しく転がる空っぽになった墨汁のボトル。 
カヲルはぽたぽたと毛先から床に滴り落ちる墨とボトルを何度か交互に眺め、やがて自分もアスカと同じように教室を走り出た。



***


こんなつもりじゃなかった、とアスカは必死で涙を堪えながら膝をぎゅっと抱える。
裏庭の隅っこ。教室や職員室からは絶対に見えないその場所で、彼女は小さくなって踞っていた。

気を抜けば泣いてしまいそうだった。本当に、あんな事をするつもりじゃなかったのだ。
カヲルの驚いた顔だけが何度も頭の中に浮かび上がる。
彼だってきっと、怒ったに違いない。当然だ。カヲルは何も悪い事なんてしていないのだから。

「渚君のこと好きなんでしょう」と、聞かれて。

もしかするとそうなのかもしれないと自分でも思いながらも考える事すら否定していた事柄を簡単に口にされて、アスカは激しく動揺してしまった。そんな事、自分やカヲルを良く知りもしない他人なんかに言われたくなかった。

本来ならばそれを口にした当人に怒りをぶつけるべきだった事も理解はしているのだ。
けれどあの時、アスカの怒りはカヲルに向いてしまった。

ーーどうしてこんな事になってしまったんだろう。
ーーどうしてこんな事を言われなければならないのだろう?

少女達の指摘もさながら、ここ最近の苛立ちも相まって、アスカは自分のプライドを保つ為にカヲルに矛先を向けてしまった。

好きなんかじゃない。
あいつが無視なんてするから。
視線を反らしたりするから。

ーーあいつが、視界に飛び込んで来るから!

そんな自分勝手な事を考えたのだ。極めて一方的な責任転嫁をした。カヲルに全ての原因を押し付ける事で、何とか自分を守ろうと。

そして、アスカはあんな行動に出てしまった。
残ったのは酷い後悔だけだ。

大っ嫌い、と呟く。
無神経なクラスメイトも、嫌いではなくなった筈の習字も、ーーアスカに話しかけてくれないカヲルも。

だけどそのどれよりも、自分が一番大嫌いだった。カヲルに酷い事をしてしまった自分が。

しかもあんな事をした挙げ句文句も聞かないまま逃げ出してしまった。こんなやり方しか出来ない自分なんて、嫌われて当然だ。
もう仲直りだなんて、また前みたいに話すだなんて事、絶対に出来はしない。カヲルが自分を避けていた理由だってきっとわからずじまいになってしまう。

アスカは無遠慮な事を言った女の子達を恨んだが、それが逆恨みでしかない事も同時に理解していた。
彼女達はただ、よくある女子同士の恋話をアスカに持ちかけただけなのだ。アスカだってヒカリを応援しながら茶化したりもする。それと同じ。なのに自分がそうされる立場になった途端に怒り出すだなんて、そんなのは余りにも勝手すぎた。

わかっているのだ。
ただ、どうしても許せなかっただけで。

だってアスカはカヲルに避けられている。
それなのにカヲルの事が好きだなんて、そんなのは悲しすぎるだろう。
第一、自分でもはっきりと断言出来るような想いじゃない。好きか嫌いか、友情か恋愛かなんて考えた事もなかった。そんなものどうでもいいくらいカヲルとの関係は心地よかったから。

だから、何も知りたくなかった。
気付きたくもなかった。名前をつけて壊れてしまうくらいなら、ずっとあのままでいた方が良かったのに。

でももう全部終わりなんだ、と思えばまた涙が込み上げる。辛うじて涙は流れていなかったにしても、瞳は完全に潤み半分泣いているようなものだった。こんな所でまで意地を張らずにいられない自分に一層嫌気が差して、手の甲に爪を立てる。

教室になんて戻れる気がしない。時間が経てばより気まずくなるだろうとわかっていても、どうしても無理だった。きっとみんな、変な目でアスカを見るだろう。
そして何より、カヲルと顔を合わせるのが怖い。軽蔑を籠めた目で見られてしまったら、今度こそ完全に無視されてしまったら、一体どうすればいいんだろう?後者であれば謝る事すら出来ない。

そうだったとしても、どうにかして謝罪だけはすべきだとアスカはぼんやり考える。無視されようと嫌われようと、自分が酷い事をしてしまったのに変わりはないのだ。

一瞬目が合ったカヲルは酷く驚いた顔をしていた。
彼からしてみれば、訳がわからなかっただろう。突然背後からボトル一杯の墨汁を浴びせかけられたのだから。

ーーと、先程の自分の行動を鮮明に思い出して死にたい気持ちになる。せめて他にやりようはなかったんだろうか、と。アスカは決して彼の色が嫌いだった訳ではないのに。



授業開始のチャイムが鳴ったのを耳の端に捉えてため息を吐く。

カヲルはどうしただろう。あのままの姿じゃ授業を受ける事なんか出来ないに違いない。
ああ、そういえば床も汚してしまった。ヒカリは自分が何をする気か気付いていてくれたみたいだったから、きっと何とか処理してくれただろう。後で謝らなければ。

考えれば考えるだけ落ち込んで、膝を抱えて顔を埋めた状態から動けない。その後悔が余りにも深かった為に。

ーーだから、名前を呼ばれるまで気付かなかった。

それに、まさか彼が自分を追いかけてくるなんてちっとも思っていなかったのだ。

「惣流、こんなとこにいた」

突然降った声にアスカは体をびくつかせる。

誰の声かなんてすぐにわかったのに、顔を上げられない。声も出せない。
余計に身を縮こまらせたアスカに、カヲルは「探しちゃったよ」と続けた。それに尚更アスカは泣きたい気持ちになった。

彼は、自分を探していたのだ。
文句を言うために。

声だけじゃ、カヲルがどんな顔をしているのか想像も出来ない。けれど、顔を上げて直視する方がずっと怖かった。その表情も、有り様も。

僅かな沈黙の後、口を開いたのはやっぱりカヲルの方だった。

「……えーと。……あのさあ、」
「……だ、だって、あんたがっ!あんたが悪いんじゃない!!」

それを、遮る。
先程までは謝ろうと思っていた筈なのに、口から飛び出たのは心にもない言葉。
我ながら自分の台詞に驚いたアスカは何とか止めようとして、けれど堰を切ったように溢れた言葉は一向に止まらない。
多分アスカは、カヲルの言葉を聞くのが怖かったのだ。否定されるのが、嫌いだと言われるのが怖かった。だから、先に相手を否定しようとした。

「僕?僕がなんかしたってこと?」
「あんたのっ……髪が、白いから!だってどうしても目立つんだもん!だから、つい目で追っちゃうから、だから私があんな事、言われ、…………………」
「………髪?白いから?目立つ?」
「…………………」

ぽつりと呟き、カヲルはそれきり黙りこむ。アスカもまた、急激に勢いを失ってぎゅうっと眉を寄せる。

ーーああ、もう駄目だ、と思った。

まるで彼を差別するような言い方をしてしまった。そんなつもりじゃなかった。
確かに自分が彼を目で追いかけてしまう理由の一つに独特な髪の色があったとは思う。だけど、この言い方はどう考えたって間違っていた。これじゃあ、アスカが彼の色を嫌っているように聞こえてしまう。

カヲルが悪い筈なんてない。ましてや、本人にはどうにもならない髪の色に責任を押し付けてしまうなんて。もし自分が言われたら酷く傷つくだろう。
なのにアスカは言ってしまった。一番酷いやり方をしてしまった。

カヲルを目で追っていた本当の理由を知られたくなくて。
彼の事なんてちっとも考えていない、自分の為だけに。

咄嗟に謝ろうとしたのに、けれど何を言えばいいのかわからなくて結局アスカは開きかけた口を閉じてしまう。

どうして酷い事ばかりしか言えないのだろう?本当に言いたい事は別にある筈なのに、どうして。

「……そういうことか」

次に聞こえた言葉にアスカは呆れてしまうくらいに震えた。怒っているに決まっていると思ったのだ。

けれど、どうしてかカヲルは笑った。

堪えきれないとばかりに思いっきり。けらけらと。

「相変わらずすっごいことするね、君」
「………………え?」
「ほんと予測できないよ。普通さあ、白いからって墨汁かける?それで黒くなるって?」

そんなの思い付かなかった、とやっぱりカヲルは面白そうに笑う。
その楽しげな笑い声に驚いたアスカは今までの躊躇を忘れて思わず顔を上げ、声と同じく腹を抱えて笑うカヲルを目の当たりにして呆けてしまった。
そして、驚愕しつつも恐る恐る尋ねる。

「お、怒って……ないの?」

その仕草が叱られるのを恐れる子供のように見えたカヲルは呼吸を整え、「怒ってないよ、別に」と何とか返した。

「だって私、突然墨汁ぶっかけたのよ?何で怒んないの?制服だってぐちゃぐちゃだし、髪だって……」
「まあびっくりはしたけどね。面白かったしいいよ。……ていうか、」

怒ってんの君の方だと思ってた、と続けられてアスカは目を瞠る。
何がどうしてそんな事を思ったのかさっぱり理解出来なかったのだ。疑問がそのまま表情に浮かんでしまっていたのか、カヲルは肩を竦めるとまた口を開いた。

「僕ってこんなんだからさ。自分でも気付かない内に何かしちゃって、怒ってあんな事したのかなって。嫌われたのかと思った」
「……別に、嫌いとか、そういうんじゃないわよ」
「うん、だから安心した。嫌われてないなら他はどうでもいいや」

その言葉にぎょっとして窺うような視線を向けたアスカに対して、カヲルは至って呑気そのものだった。「うへぇ、笑ったら口ん中に墨汁入った」等と言って髪をかきあげる顔は、どうやったって怒っているようには見えない。

「……どうでもよくないでしょ。自分でも最悪なことしたってわかってるし、怒ればいいじゃない」
「へ?何、まだ気にしてんの?」
「逆に、なんでそんな平然としてんのよ……」
「そんな事言われても。だって、多分僕と同じこと言われたんだろうし。それならこうなったのも判らないでもないから」
「同じ?」
「僕のことばっかり見てるってからかわれたんだろ?」

けろりとカヲルは言ってのけたが、アスカは驚きの余りぽかんと口を開けてしまった。どうしてそんな事をカヲルが知ってるのだろう?
そんな彼女に構わず彼は微妙に顔を顰めながらうんざりと溢す。

「同じこと僕も言われた。君のことばっかり見てる、好きなんだろって。ほんと勝手だよね」

最近じゃ僕が君に話しかける度に囃し立てられてさあ。違うって言ってんのに。

「……あんた、私のこと見てたの?」
「お互い様だろ?ていうかあんだけ目合ってたのに気付かなかったの、君」

そう言われてやっと思い当たる。
確かに、何度も目が合った。そしてそれは、目が合うという事は、アスカだけでなくカヲルもこちらに視線を向けていたからに決まっているだろう。

「自分でも理由がわかんないから困ってたんだけど。この前君に言われてやっとわかったんだよね」
「な、何が?」
「髪だよ髪。皆黒ばっかだろ?僕も目立つかもしんないけど、僕からしたら君も同じくらい目立つんだ。だからうっかり見ちゃうんだって気付いたんだよ。まあ、正直に言っても誰も信じてくんなかったけど」

ぺらぺらと語られるまるで予想外の事柄にいつかの帰り道を思い返し、全ての謎が解けたような気がした。あの時カヲルが妙にアスカの台詞に納得していたのはこういう事だったのだろう、と。

そしてもう一つ。アスカがずっと気にしないようにしながら、考えずにいられなかった事についても。

「……もしかして、それで?」
「ん?」
「周りから囃し立てられるのが嫌で私のこと避けてたの?」
「……なんだ、気付いてたんだ。そうだよ。別に避けてたって訳じゃないけど」

アスカとしては尋ねるのにかなりの勇気を要したのだが、カヲルはいともあっさりと首肯する。「僕は別にいいんだけどさ。君が同じこと言われたら絶対爆発するだろうと思って」と笑いながら。

「案の定こうなったし。あんま意味なかったね」
「……………」
「…………あれ?惣流?」
「………し、」

信っっじらんない!!とアスカは吠える。
こんな程度の事でずっと悩んでいた自分が余りにも馬鹿馬鹿しく思えてしまったのだ。

「わ、私がずっと、どんな気持ちでいたと思ってんの!?何かしちゃったのかと思ったじゃないの!」
「あ、そんなこと気にしてたんだ。ごめんごめん、別に君は何もしてないよ」
「あんったねぇっ……!謝罪が軽いのよ謝罪がっ!最初からそう言ってくれれば私だってあんなこと………っ」
「………あんなこと?どんなこと?」

ーー墨汁をかけるような真似をしたり、酷いことを言わなくても済んだのに。

そう言いかけて、また俯く。

どんな事情があったとしたって、自分がカヲルに酷い事をしてしまったのに変わりはない事を思い出したのだ。
勝手に落ち込んで、勝手に拗ねて、カヲルだけに責任を押し付けるだなんて絶対に間違っている。

今なら謝れるのかもしれないと何とか言葉を産もうとして、なのにまた唇が上手に動かない。カヲルが許してくれたからといって、謝罪をしなくてもいい理由にはならないのに。悪態ならば幾らでもつけるくせに、どうして簡単な筈のひとことだけがこうも難しいのだろう?

両掌を固く握りしめたまま急に黙りこんだアスカを不思議そうに見つめていたカヲルは、小さく息を吐くとわざと軽い調子で始めた。

「でもやっぱ、色々面倒だね。これから何回もこういうことあるのも困るし、黒くしようかな」

ーー………黒くする?

その言葉に一瞬全てを忘れてアスカは少しだけ離れた位置に立っている少年を見上げる。言葉の意味が理解出来なかったのだ。

「前から考えてはいたんだけど、定期的に染めるのが億劫でずっと先伸ばしにしてたからさ。一応日本に残るって決めた訳だし、その方が楽だろうしね。君だって変な疑惑持たれてこれ以上からかわれるの嫌だろ?」
「…………染める……?そんなの、……だって、それなら、」

私だって、とアスカは戸惑いながらも呟く。カヲルだけが髪を黒くしたって意味なんかないだろうと。

カヲルはアスカの髪の色が目立って見えるからつい視線を向けてしまうと言っていた。
ならば、例えアスカがカヲルを見なくなったってカヲルはきっと周囲から誤解を受け続けてしまうだろう。だったら自分も同じように髪を染めるべきだと思ったのだ。

それに。

ーーカヲルの髪の色が変わったって、周りと同じになったって、アスカは、きっとーー

アスカが何かを言う前にカヲルは緩やかに首を振る。
「だから、僕は別に何言われてもいいんだって」と諭すように。

「僕もなるべく見ないように努力するから、君は色変えないで。勿体ないよ」
「……………勿体ないって……何が?」

アスカの問いに、

つい視線向けちゃって自分でもうんざりするんだけどさ。

と、前置きをして。

けれどきっぱりと、何の恐れも躊躇いもなく、真っ直ぐにアスカを見ながら彼は言った。



「僕、君の髪好きだ。色も細さも全部。自分では見えないかも知れないけど、風に揺れると太陽の光がきらきら反射して凄く綺麗だから」



ーー黒くしちゃったら、勿体ないってこと。

アスカはそんな彼の言葉に驚いて、ぴたりと固まって動けなくなってしまう。
そんな相手の様子に満足そうに笑ったカヲルは一瞬だけ座ったままの少女を覗きこむように屈んで「だから変えないで」と繰り返した。けれど、言われた方は動揺と困惑の余り頷く事すら出来ない。
そんな風に言って貰ったのは、生まれて初めてだったのだ。

らしくもなく静かになってしまった少女を面白そうに眺めた少年は、立ち上がるとそのまま踵を返す。一切拭く事もせずに飛び出してしまった所為か、未だに髪から真っ黒な液体が垂れている事を思い出して。

「とりあえず髪洗ってくる。染めるって言っても墨汁で何とかする訳にもいかないしさ。悪いけど明日までは白いままで我慢して」

からかうような口調で落ちたその言葉に、呆然としていたアスカは急速に我に帰る。

自分が未だに何も本心を伝えられていない事に気付いたのだ。
謝罪すらも告げていない。何も、何もまだ口に出来ていない。

カヲルはアスカが酷い事をしてしまったのにも関わらずちゃんと言ってくれたのに。

この髪を、髪の色を、好きだと。

ーーーなら、私は?

今言わなければ一生言えない気がした。
カヲルは多分、そんなアスカの事も笑って許してくれるだろう。今日彼が、全てを許してくれたように。

でも、アスカは許せない。
このままじゃ、これから先ずっと自分を許せはしない。



だって本当は、ずっと、ずっと。
ずっと追いかけていた。




渚、と呼ぼうとして、何とか彼の足を止めようとして、けれどそれよりも先にアスカは走り出していた。長く座っていた所為でよろめきながらも、それでも離れていく背中を追いかけた。

そしてその勢いのままぎゅっと彼のワイシャツを両手で握り締めると細い背中に身を寄せ、額を預ける。
シャツを引かれ、ぴたりと足を止めたカヲルは驚きを隠さない声でアスカを呼んだ。

「………惣流?」

普段ではあり得ないような大胆な行動に出たアスカだったが、唇が震えてやっぱり声が出ない。ーー今度は涙の所為だった。
ずっと我慢していたのにとうとう彼女は泣いてしまっていたのだ。

どうしてかは判断がつかない。
謝罪の一つも出来ない事が申し訳なかったからかもしれないし、ただ単に先程の彼の言葉が嬉しかったかもしれない。自分でもわからなかったのだ。
けれど、確かに涙は溢れていた。
心臓の音が煩い、と思う。カヲルの髪に触れた時と同じように。

自分の背中に張り付いたまま何も言わないアスカを振り返る事も出来ないカヲルは、ちらりと横目で何とか状況を確認すると、困ったように、呆れたようにーー何かを諦めたように、もう一度名前を呼ぶ。

「…………そーりゅー、」

汚れるよ、と続く声。
口を開けば嗚咽が漏れそうで、アスカは返事を返せない。だから、彼の背中にしがみついたままぶんぶんと首を横に振った。
そんな事、どうだっていい。とっくの昔に掌も真っ黒だし、制服にも染みが出来ている。
だからどうした、掌は洗えばいいし制服なんて買い替えればいいだけだ。アスカは今どうしても、絶対にこの手を離したくはなかった。

「いいの?」と聞かれて今度は頷く。
カヲルが小さく笑った気配がした。その仕草で驚く程安心してしまった自分に気付く。

「あのさ、振り向きたいんだけど」
「…………やだ」

何とか二文字だけを紡いだ。どうせ泣いている事くらいばれているに決まっている。だけどやっぱりこんなぐしゃぐしゃの顔を見られたいとは思わない。

代わりに、今度こそ素直に告げた。

謝罪よりも先に、本当の気持ちを伝えたかったから。


「ーーー…………すき」


神経を集中しなければ聞こえないような、ごくごく小さな声で、それでもありったけの心をこめて囁く。

聞こえなかったかもしれない、でも聞こえていて欲しいと思った。きっと自分がこんな風に素直になれる事なんてこの先滅多にないだろう。

そして、どうやら願い通りカヲルにはしっかり聞こえていたらしい。
「え」と短い単語を発して明らかに彼は硬直した。

それに安堵したアスカは更に明確に、今度はわかり易く続ける。

「あんたの色、私も、すき。……だから、そのままでいい」

だからどうか、変えないで、と。

それは確かにアスカの本心だったのに。
限界まで勇気を振り絞ったというのに。

何故かカヲルは僅かに脱力したような声色でぼやいた。

「……………………………そっちか」
「………そっちってなによ」
「いや、なんでも。………で、それって染めなくてもいいってこと?」
「……他にどう聞こえんの、ばか」

ぐす、と鼻を啜れば、だよね、とカヲルが笑う。それがやけに嬉しく思えて、シャツを握る指先に力をこめた。
二人とももう真っ黒で、端から見ればさぞかし笑えたに違いない。

「またからかわれるかもよ?」
「いい。だってどうせ、見ちゃうし」
「………………一応聞いとく。今から僕、更に君を墨汁まみれにしちゃうかもしんないけど、いい?」
「……もう充分汚れてるわよ。ていうかあんたがそんな状態なのも元々私の所為でしょ」
「それっていいってことだよね」

言うが早いか、くるりと振り返るとカヲルはアスカと向き合う。彼の突然の行動に身体を預けていた少女はふらりとバランスを崩してしまったが、カヲルはそのまま小さな身体を抱き止めた。

アスカは勿論動揺して、だけど何も言わない。ただ、今度は胸の辺りのシャツをきゅっと握り締める。

心臓の音が煩い。
この音が自分のものなのか、それとも自分を抱き締めている少年のものなのかはもうわからない。それ程に二人の距離は近かった。今までよりもずっと。
自分とは違う体温に触れているのが何だか照れ臭くて、ーー嬉しくて。
わざとぶっきらぼうな口調を作った。

「……誰かに見られたら誤解されるわよ」

からかわれるの嫌だったんでしょ、と。

「だから僕は別にいいんだってば。…………それに、」

珍しくカヲルが言い淀んだりするものだから、きょとんとなったアスカは涙顔のまま少しだけ高い位置にある横顔へと視線を向けた。
カヲルもまた、抱き締める腕は外さないままちらりと視線を寄越すと観念したように呟く。

「…………僕の方は、誤解じゃなかったみたいだ」

そのひとことで、うっかり涙までもが引っ込んだ。
これでもかというくらい真っ赤になったアスカは何て返すべきかわからずに彼の胸に顔を埋める。

ーーそれ、どういう意味?って聞くべきなんだろうか?



二人とも墨汁だらけの色気のない姿。だけどやっぱりアスカは清々しい気分だった。
ずっと会話をしていなかったからなのか、話したい事が山程ある気がする。

だから、今日は沢山話をしよう。残りの授業はもうサボってしまえ。どうせこんな格好じゃ教室になんて戻れない。

楽しくて下らない話をしたら、もう少しだけ勇気を出して、ごめんねって言おう。今まで言えなかった分まで精一杯。
そうしたらきっと、もっと素直になれる筈だ。



だから、あとちょっとだけ。

頬の赤みが引くまでは、このままで。











ブラックラック




(泥だらけならぬ墨汁だらけなんてロマンスの欠片もないけど)

(まあなんていうか、らしいんじゃないの)








***

〈ブラック・ラック〉

皆さま経験あるかと思われますが、本人同士がどうだろうと意外と周りは放っておいてくれないという。
そっとしといたれや!とうぬぬしていた学生時代を思い出して遠い目をしている訳です。今はあれですよ、若いなぁとしかね。歳を重ねるにつれてそんな話もなくなるので学生の皆さまは是非是非若さを満喫して頂きたいです(笑)騒いでくれてる内が華だよ…!


160713.

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