空飛ぶ広報室

□溢れ出るものU
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―ねえ空井さん。

 空井さんの中に、もう私はいませんか?


 鷺坂さんにホテルまで送って貰い、チェックインを済ませて部屋に入った。

「はあ……」
 思わず大きく息を吐く。
 緊張した。あの人が、二年前に私の傍から去ってしまったあの人がすぐ傍にいる。
 緊張すると同時に、彼が元気でやっていることに安堵した。

『じゃあ明日』
 そう言い合ったのに、その明日は来なかった。
 
 離れ離れになって気付いたこと。
 私にはこの人と遠く離れてしまっても、この人が必要だということ。

 なのにあの人は、

『幸せになって下さい』
 
 その言葉を残して、あの人は私から離れていった。

 その言葉の意味をずっと考えていた。

 もう、彼に中に私はいないのだろうか。
 私以外の誰かが、彼を支えてくれているのだろうか。

 もしそうならば、辛いけれどよかったと思う。

 繊細な人だから、いつも傍で支えてくれる人が必要だ。
 いつも傍にいることが出来ない私では、彼を支えるには役不足だ。

 久しぶりに会ったあの人は、あの頃と変わらないようでいて、少し影を落としているように思えた。

 それはそうだ。あれだけの経験をしているのだ。
 だからこそ、彼を支える人が必要だった。

 でもそれは、彼にとっては私ではなかったのだろう。

『稲葉さん、空井のヤツ、東京にいい人がいるんでしょうか?』
 あの人が急な他用で暫く中座して渉外室室長の山本さんと二人になったときだった。
 唐突に切り出された。
『……いえ……よくわかりません』
 あの人と連絡が途絶えて二年も経つのだ。
 知るはずもない。
『そうですか。アイツ、全くと言っていいほど、浮いた噂がないんです。あの年齢だからそろそろ身を固めてもいい頃なんですが、本人自身にその気もないようで。それどころか彼女の一人も作ろうともしないんです』
 何だかその顔には心配の色が見て取れる。独特の低音ボイスに優しさが滲み出ている。
 あの人を心配している人はここにもいる。
 少し安心できた。

『転勤族で有事の際には傍にいられない自衛官だからなかなかってことはあります。今は合コンも婚活もあるようですが、空井はそんな誘いにも一切乗ることはないんです。何と言うか……頑なに拒否している、というか……』
 彼はそういう相手を作ろうとしないのか。何故?
『一瞬、アイツはそっち系か?なんて言われたこともありました。それは本人も全力で否定してましたが』
 山本さんは笑いながら言った。
『だから思ったんです。東京かどこかに、アイツの想い人がいるんじゃないかって』
 そして山本さんはこちらに顔を向けた。
『それがあなたならいいなと思います』
 山本さんの言葉に目を瞠る。
 しかし、山本さんの視線から目を逸らして言った。
『……私では……役不足です……』
 山本さんは何か言おうとしていたが、彼が戻ってきたので、そのまま打ち止めとなった。

 山本さんの話からあの人にはそういう存在がいないということはわかった。
 今あの人にそういう人はいないということに、ほんの少し安心して、少し悲しくなった。
 あの人は繊細なのに。支える人が必要なのに。誰もいないのか。


 当時の話を彼らから聞いて、自分の不甲斐なさに気が付いた。

 私は何も伝えていない。伝えられていない。
 何も出来なかった。

 胸が締め付けられて次から次へと涙が溢れる。

 いつか、泣くあの人の頭を撫でた。
 だけど、今度は私が撫でられた。

 これ以上ない、優しい手付きで。

『余計泣けるんでやめて下さい』
 私がそう言うと、
『僕が、稲葉さんに出来ることは、他にもう、ないんです……』

 ああ、そうか。

 そのとき、ストンと胸に落ちてきた。

 この人は私に笑って欲しいんだ。私に泣いて欲しくなかったんだ。
 自衛官であるあの人は、あの震災を経験したあの人はいろんなものを抱えている。それを私に抱えさせたくない。
 別の人生を歩むことで、あの人は私が幸せになれると思っている。
 本当はそうじゃない。私の幸せはそうじゃない。
 私はあの人の抱えているものを一緒に抱えたかった。あの人と一緒にあの人の痛みを分かち合いたかった。
 だけど、あの人はそれを良しとしなかった。

 何となくだけど、この取材を通して感じていた。
 それがこのとき、腑に落ちた。

 私はまだ、この人の中にいる。
 だけど、それがこの人を苦しめているのだ。

 あの人が私が違う道を行くことを願うのならば。

 私もそうしよう。

 
 ホテルの部屋でパソコンを立ち上げる。

 今の私に出来ること。

 それは、この町の人たちにブルーインパルスを直に感じて貰うこと。
 ビラを作って町の人たちに配ろう。
 町の人たちが笑顔になるように。
 そして、それを置き土産に、あの人とは永遠にさよならだ。

 あの人の中から、私は去ろう。
 いつか、あの人が心から笑えるように。
 それが諦めることになろうとも、あの人のために。

 パソコンの液晶に並ぶ文字が歪んで見える。
 キーボードを叩く手に雫が落ちる。

「……うっ……」
 
 泣くな。明日という日に悲しみの涙は似合わない。

 笑ってこの地を去ろう。

 このビラに手書きでイラストを描いた。
 歪なうさぎのイラスト。
 きっと珠輝が見たら『もっと可愛くっ!!』と嘆くだろう。
 イラストの出来栄えは良くないけれど、想いは伝わるはずだ。

 これが『因幡の白兎』として最後に出来ること。
 その印を残していく。

「この企画は、私からあなたへの愛です……空井さん」

 もう会うことはないけれど。
 あなたがいないなら、心から幸せにはなれないだろうけど。

 それでも、私は私の人生を歩むことを決めた。

 一生あなたを忘れません。一生あなたは私のエレメントです。
 例え会えなくても。別々の道でも。


 涙とともに、愛が溢れた―。


 end

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