空飛ぶ広報室

□溢れ出るもの
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 玄関の鍵を開ける。
 部屋へ入るとたたきで靴も脱がず、そのままドアにもたれながら崩れ落ちる。
 そして膝を抱えた。

 目の前に現れた彼女はあの頃よりも綺麗になっていた。

 明日会おうと約束をした。その日に震災が起こった。
 自分の無事を親兄弟でも友人でもなく、真っ先に彼女に知らせたのは自分の気持ちの表れだ。
 本当は会いたかった。無事だとわかっていても、それでも彼女の無事を、この目で確認したかった。

 だけど、いろんなものを抱え込んでしまった自分に彼女を幸せにすることなど出来ない。

 苦渋の決断で身を引く決意をした。

 時間が解決してくれる。そう思っていたのに。
 だけど、空を飛ぶ夢を見なくなったのに、彼女の夢ばかり見る。
 二年前の彼女が、自分に笑いかける。
 ブルーインパルスを見上げているとき、『空井さんの隣で見られてよかった』と言った彼女の顔。
 何度も何度も、夢で繰り返される。

 今日、再会した彼女は綺麗になっていた。
 誰か、彼女を守ってくれる人が出来たのだろうか。
 ほんの少し、そんなことを考えて胸を痛めた。

『稲葉さん、ご主人か恋人はいらっしゃいますか?』
 山本室長がいきなり彼女にこう聞いた。
 彼女は一瞬こちらを見たがすぐに山本室長に視線を戻して、
『いえ、仕事が恋人ですから』
 と、はっきり言った。
『そうですか。我々自衛官も家族や恋人はいます。だけど有事において家族や恋人を優先することは出来ない。ただ心に不安を抱えて、それでも目の前にいる誰かを助けなければならない』
 室長の言葉に、彼女は目を伏せた。
『……わかります……大事な人と連絡が取れない方の、不安な気持ちも……』
『あなたも、あの震災で……?』
『私は連絡が取れました。でも本当に無事かどうかがわかったのは最初の連絡から数週間後でした。その間……不安でいっぱいでした』

 ああ、自分のことを言っているんだ。
 彼女に不安な思いをさせた。そのことを彼女はまだ忘れてはいない。
 そんな思いをさせるのなら、いっそ会わない方がよかったのかも知れない。

 でも少し、彼女に恋人がいないということにホッとした。
 他の人と幸せになって欲しいと思っていながら、心の底ではそうであって欲しくないと思っている。
 本当に矛盾している。

 忘れられるはずがない。
 忘れられるはずがないんだ。

 こんなにも愛しいのに。
 こんなにも、本当は誰よりも彼女が必要なのに。
 
 本当は、誰かに彼女を幸せにして欲しいなんて思っていないのに。
 本当は、誰よりも彼女を幸せにしたいのに。
  
 この身を焦がすような恋を初めて知った。
 でもきっと、これ以上の恋をすることはないだろう。

 いや、自分は一生彼女を忘れることなど出来ない。

 再会して、再認識させられた。


「うっ……」

 気が付けば、泣いていた。
 涙が溢れて止まらなかった。

 痛い。痛い。どうしようもなく胸が痛い。
 こんなにも人を好きになったことはない。
 好きすぎて胸を痛めるなんてこと、彼女に会うまで知らなかった。

『私は、空井さんの泣き顔ならたくさん見てるので、今更です』

 彼女の前では自分を曝け出せた。
 頭を撫でて貰ったとき、その手のあたたかさに、胸が詰まった。
 
 彼女の手には救われてきた。
 そんな彼女が、今日泣いた。

『私、何も伝えられてません』

 そう言って泣く彼女の頭を撫で、そして細い肩を抱いた。

 優しくて責任感の強い彼女は、今日の取材で心を痛めてしまったのだろう。
 酷なことをしたかも知れないが、今日の話をしないと彼女は納得しなかっただろう。
 そういう人だとわかるほどに彼女の傍にいすぎた。

 強気な彼女の裏側の、本当は繊細で弱い彼女に気付くほどに。

 ああきっと、彼女に触れるのはこれが最後だろう。

 北海道で触れた、彼女の唇。
 どうしようもなく溢れてきた彼女への想い。その想いが衝動的に起こさせた行為。
 
 もう、あんな風に触れたことが、今となっては夢のようだ。

 彼女を隣に乗せて運転していても、もう会うことはないと思っていた彼女が、今はこんなにも近くにいることにすごく緊張した。

 北海道のときのように触れてしまうのを我慢して、ただ運転に集中した。


 独りの部屋に自分の嗚咽だけが響く。

 会えてよかった。だけど、辛い。

 あのとき以上に、彼女への想いが溢れ出る。

 だけど今は、その想いと同時に溢れ出るものは。

 涙だけだった。


 end

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