踊る大捜査線

□The overlapping thought−重なる想い−
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 警察を辞めようと辞表を出したのに、すみれはまだここ、湾岸署にいる。
 
 真下の息子が誘拐され、青島と室井に辞職勧告が下されたと知ったとき、刑事を辞めて大分に帰ろうと思ったすみれの決意は脆くも崩れ去った。

 自分でも無茶だったとは思う。だけど、理屈じゃない感情がすみれを動かした。
 慣れないバスを運転し、和久に聞いた場所へと向かう。

 お願い、間に合って。

 すみれは無我夢中でバスを走らせた。
 そしてバナナ倉庫へバスのまま突入し、大事になってしまったが、結果青島も勇気も救うことが出来た。


『辞めないでくれ』

 青島にそう言われて、今まで頑なに意地を張ってきたすみれの気持ちが、溶けて消えていくような気がした。
 そして頷いた。
 すると青島はすみれを抱く力を強めた。
 ああ、この人は何てあたたかいのだろう。
 すみれは青島の腕の中でそんなことを思った。
 この人の傍にいることが自分の幸せだったのに、どうして一瞬でも離れることが出来たのだろう。
 もう無理だ。この人から離れるなんてことが出来ない。
 だけどもう刑事の仕事が出来ない。こんな自分は、ここには必要ないのに。
 きっと彼にとっても、刑事ではない自分なんて必要ないだろうに……。

 課長の魚住が辞表を保留にしてくれているお陰でまだ警察官でいられる。バナナ倉庫の責任もきちんと取るつもりでいるが、室井の計らいで大した処分にはならないとのことではあった。
 しかし、その先はどうすればいいのか。
 青島に『辞めないでくれ』と言われて頷きはしたものの、この先続けていく自信が持てない。
 気持ちに身体がついていかない。
 それでも、まだ刑事でいたいという気持ちが首を擡げて出てくる。

 屋上で空を見上げる。
 夕焼けが目に沁みる。堪えていた涙がまた溢れそうになる。

 そのとき、気配を感じた。

 青島くん……。

 何故だかそう思った。

 青島がここに来る。
 まだここへは来ていない。でもすみれにはわかった。彼がここに来ることが。

 屋上の扉が開く音が聞こえた。
 一瞬戸惑うように、その気配は入口のところで止まる。そして再びすみれに向かって歩き出した。
 その足音はだんだんと近付いてくる。すみれは妙な緊張で振り向けずにいる。

「すみれさん」

 青島の優しい声が背後から聞こえる。
 でも振り向けない。返事も出来ない。

 彼相手にこんなにも緊張したことなどなかったのに。

 ―怖い。

 何を言われるんだろう。
 やっぱり俺にあんなこと言う権利はないとか。あれは一時の感情だったから無しにして貰いたいとか。

 そんなマイナスなことばかりが頭を過ぎる。

「……ねえ、すみれさん」
「……なに……?」
 振り向けないまま、すみれは掠れそうな声を必死で出す。

「あのさ……俺、すみれさんに言わないといけないことがある」
「……」
 その声音から、彼の真剣さが伝わってくる。
 いつもよりも低音で、捜査に関わっているときの声音。

「俺……すみれさんにずっと言えなかったことがあったんだ」
「……」
 すみれは見上げた視線を足元に落とした。
「俺ね……ずっと……すみれさんを大切だと思ってた……いや、違う。今も思ってる」
 すみれは俯いたまま目を瞠った。
「大切すぎて……この関係を壊すのが怖くて、どうしても口に出せなかった」

 それはすみれも同じだった。青島のことが大切で、誰よりも好きで。だから同僚としてでも傍にいたいと思った。
 だけど、それすらも叶いそうになかった。
 この仕事をするには、この身体では厳しいと思ったから。
 だから、ここから……青島から離れようと思った。

「好きなんだ、すみれさん。俺、誰よりもすみれさんが好きだ。ずっと傍にいたいと思ってる」
「っ!?」
 すみれは青島の言葉に顔を上げ、青島に向き直った。

「だから……ついあんなことを言ったけど……訂正する。すみれさんがもう警察の仕事が出来ないって言うなら辞めてもいい。だけど、ずっと俺の傍にいて欲しい」
「青島くん……」

 自分たちは同じ想いでいた。ひょっとして……と思わないこともなかったが、確信は持てなかった。
 どこか博愛主義にも思える彼が、誰か特定の人を思うことがあるのかと思うこともあったから。
 そんな彼が自分を好きだと言った。ずっと傍にいて欲しいと……。

 真っ赤になり目を瞠るすみれに、青島は真剣な目を向けてその言葉を告げる。

「結婚して欲しい」

 ……結婚……?

「……なに……言ってるの……?」
「結婚して、すみれさん。俺と」
「やめてよ……同情なんていらない」

 身体の調子が良くないから。そのせいで警察を辞めるから。だから一時の感情で、同情心でそう言っているのだと思った。
 そんな気持ちで結婚なんかしたって幸せになんかなれるはずもないのに。

「同情じゃない。本気だから」
 だけど青島はすぐにその言葉を否定する。
「同情よ……あたしがこんな状態だからって……」
 それでも素直になれない。青島が自分に向かってそのようなことを言うはずがないと、すみれはずっと思っていたから。
 しかし、青島はそんなすみれに続けて言う。真摯な瞳を向けて。

「俺ね、すみれさんの傍にいられるならどんな形でもいいって思ってた。でもきっとそれは無意識で、ちゃんと考えたことなんてなかった」

 いつも背中越しに、隣にいるのが当たり前だった。
 青島が係長になるまではいつだって振り向けばそこにいた。
 当たり前になりすぎて、あのとき、すみれが撃たれたとき、その存在の大きさに気が付いた。
 
「でもさ、すみれさんが撃たれたとき……すみれさんがいなくなるかもって思ったとき、足元から何かが崩れていくような感覚に襲われた。でもすみれさんが『あのバカを撃って』って言ったから、俺、何とか走ることが出来た」

 あのとき、すみれは青島に犯人を捕まえて欲しかった。犯人を捕まえて、雪乃を助けてと。
 自分のことはどうでもいいから、犯人を捕まえてと。

「すみれさんはあんな状態だったのに俺に力をくれたんだ。そのとき、どれだけすみれさんが大事で、どれだけ俺に必要な人か思い知らされた」

 血に塗れた彼女の姿。今思い出しても鳥肌が立ちそうになるほどに青島に衝撃を与えた出来事。
 それと同時に彼女がいかに大事か思い知らされた。

「……つり橋理論よ」
「そうかも知れないって思ったこともある。だから考える必要があった。だけど違った。本当はもっとずっと前からすみれさんが大切だったのに、近すぎて自分でも気が付かなかったんだ」

 近くにいすぎた。いつも傍にいて手に届きそうで届かない距離感が、二人にとって妙に心地よかった。
 そのお陰で、本当の気持ちに気付けずにいた。
 初めて気が付いたときが、あのとき、この命がこの手から零れ落ちてしまうんじゃないかと思ったあのとき。
 そんな状況で気が付いたとして、本当はつり橋理論でそうではないのかも知れないと思ったこともあった。
 だけどそうではなかった。どれだけ時間をかけて考えたとしても、すみれが青島にとって大切な存在であろことは変わりなかった。
 一番傍にいて欲しい人であることに違いなかった。
 すみれがいない間も、何度も振り向いて彼女に声をかけそうになった。
 毎日のように病院に見舞いに行っていても、それでも自分の背中越しにいないととても不安に駆られた。
 それほどに、彼女の存在は自分の中でとても大きくなっていた。

「時間がかかりすぎてごめん……こんなときに言うなんて卑怯だと思う。またつり橋かも知れないって思わせたと思う。だけど……」
 青島は真っ直ぐにすみれを見る。そして言葉を紡ぐ。
「今だから言う。すみれさんがいなくなるくらいなら、卑怯だと思われてもいい。君を失うなんてことしたくない。もう後悔したくないんだ」
「……」
「すみれさんも俺と同じ気持ちだと思っているのは、俺の自惚れ?」
 お互いに同じ気持ちだったと思う。そう思っているのは自分だけではないと青島は思っていた。
「……じよ……」
「すみれさん?」
 すみれは何か言葉を発した。しかし、あまりにも小さなその言葉は青島には聞き取れなかった。

「同じよ……あたしだってっ、青島くんが大事よっ!! 誰よりもっ!!」
 すみれははっきりとその言葉を発した。自分の思いを、はっきりと青島に告げる。
「すみれさん……」
「好きよっ、ずっと好きだった。だけど、あたしだって同僚でもいいから……青島くんの傍にいたいって……」
 今まで抑えてた気持ちが溢れ出る。それと比例するように涙が溢れ出てくる。
「だけど……刑事じゃないあたしは……もう必要ないって……」
 きっと彼に必要なのは刑事としての自分だと思っていた。ただの女の自分は必要ないのだと。

「そんなわけないじゃない。すみれさんはどんなすみれさんだって俺には必要なんだよ?俺にはすみれさんじゃないと意味ないのに」
 必要なのは『恩田すみれ』という一人の女性であって刑事としての彼女ではない。
 刑事であろうとなかろうと、青島には関係なかった。

「青島くん……」
「すみれさん……ずっと……俺の傍にいてくれるよね?」
「……」
 だけどすみれは何も言わない。応えてはくれない。
「ねえ……?すみれさん……」
 青島は続けて言った。あのときと同じように。自分の想いを、偽りのない、翳りのない想いを。
「俺の傍にいてくれ」
「……青島くん」
 そしてすみれは、あのときと同じように小さく頷いた。

 青島はすみれの華奢な身体を抱き締めた。
 夕べ、バナナ倉庫で抱き締めた身体は酷く震えていた。
 だけど今こうして自分の腕の中にいるすみれはもう震えてなどいなかった。
 青島は彼女が撃たれたあのときから、初めて彼女を取り戻せたような気がした。

「すみれさん……やっぱり愛してる」
「あたしも……やっぱり愛してる……青島くん」

 ずっと傍にいたのに。こんなにも、誰よりも近くにいたのに。
 今まで気持ちに蓋をして、それでも傍にいようとしていた。

 だけどこの瞬間から、自分の気持ちに嘘を吐くことなどしなくてもいい。

 今、重なり合った想い。

 本当はずっと重なっていたのに、お互いに気付かなかっただけ。
 
 これからはずっと、もう離れることなどないのだから。


 end
 

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