本文見本

□trio sonata
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2012.6.24発行/40P



琉夏がウエストビーチに戻ると、既に琥一は一階にはいなかった。ただ、帰ってきた音がしたのだろう、「おう、遅かったな」という声だけは三階から降りてきた。

「うん、ただいま」と返しながら、カウンター横を通る。キッチンには琥一が今日使った皿が、綺麗に洗って水切りかごに並べてある。
バイトで遅くなるから夕飯はいらない。琥一にはそう連絡した。だから一人で食べたのだろう。

「コウはメシ、食った?」

琉夏はシンクの辺りに目をやったまま言った。

「ああ、適当にな。ルカも食ってきたんだろ」
「うん、まぁね」

三階からの答えに、琉夏は曖昧に相槌を打つ。
琥一が大きな身体を丸めるようにカウンターのスツールに座り、一人で食事をしている姿を想像すると、琉夏の胸はいつも、つきん、と痛むのだ。

「バイトの後、セイちゃんと食べてきた」
「………そうか、そらよかったな」

嘘だ。
お育ちのいい聖司が、こんな遅い時間に外に出てくるわけがないではないか。そんなことも考えつかないくらい、琥一の心は麻痺しているのだろう。
また琉夏の胸が、つきん、と痛む。この痛みを治療出来るのは、琥一しかいないのだ。
琉夏は自分の部屋をスルーして、三階の琥一の部屋へ上っていった。

「一応テメェの分もあるから、あとで腹減ったら……って、おわっ」

ベッドに転がって雑誌を繰っていた琥一が、突然現れた琉夏に声を上げた。

「んだよ、上がって来ん時は声かけろって、いつも言ってんだろうが」
「うん……ごめんね?」

琉夏は何とか琥一に笑いかけた。我ながら情けない表情だろうと思う。

「ルカ、どうした。疲れてんなら早く寝ろ」

琥一が琉夏の様子に気付いたのか、眉を顰めて雑誌から顔を上げた。

「うん……コウ、あのね」

琉夏はベッドに腰かけ、寝そべったまま弟を見る兄の顔を見つめた。
窺うように顰められたままの眉。心配の色が浮かんだ瞳。確かに俺は、コウに愛されている―かけがえのない、弟として。
琉夏は琥一に手を伸ばすと、そのまま綺麗に筋肉のついた太腿に頭を載せた。

「ルカ、重いんだよ」

口ではそう言っても、琥一は琉夏をどかそうとしない。
幼い頃から、何かあると琉夏は琥一に甘えることがあった。そういう時、琥一は黙って琉夏のしたいようにさせてきた。
今もただ琉夏の重みを受け止め、窓から海を眺めているだけだ。弟から、ひとつだけ先にコマを進めたい。聖司よりも誰よりも、琥一の中で琉夏だけが先んじたい。
もっと姑息な手を使っても。
琉夏は人差し指を琥一の胸に指を這わせて、囁いた。

「ね、コウ……オレを抱いてみない?」
「………何、言ってんだ、オマエ」

琥一の声が掠れている。琉夏を見ない。相変わらず、窓の外の暗い海を眺めている。

「テメェは聖司と付き合ってんだろ。そ、そういうことは……アレだ、セイちゃんとしやがれ」

見上げた琥一の咽喉が、上下するのが分かる。生唾を飲み込んだのだろう。

「想像、しちゃった? コウ」
「してねぇよ、んなもん」
「じゃあ、俺じゃなくて、セイちゃんならいいの?」
「そういう話じゃねぇだろ」

違う、と言ってくれない琥一が腹立たしい。つまりは、聖司ならいいのだ、きっと琥一は。
ムカつく。だから、琉夏は何が何でも琥一と寝ると、心に決めてしまった。

「うん……あのね、俺、困ってるんだ」

琥一の膝に寝そべったまま、琉夏は固く削げた兄の頬に指で触れた。

「ほら、もしセイちゃんと、そうなったらさ。俺もセイちゃんも勝手が分からなくて困ると思うんだよね」
「俺に何の関係があんだよ」

琥一は、腹立たしげに喉の奥で唸った。
まるで手負いの獣のようなその様子も、琉夏にとっては恐ろしいどころか、微笑ましいだけだ。琥一を安心させるよう巧みに誘導し、手懐けてやらなければならない。


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