「おっ、丁度良い。古市、暫しの間だけ坊っちゃまを頼むぞ」


日常と化した呼び出しを受け、部屋の中に入ろうと伸ばした手には扉の取ってではなく、魔王が収められた。急な頼まれ事にも、拒否権の無さにも慣れてしまっていたので事実を把握する前にはぁ、と気もなく返事をした自分の将来が心配でたまらない。
数秒間忙しなく階段を下りていく麗しく勤勉な侍女の背中を見つめていた後はっ、として、どうかしたんですか、と問えば可憐な微笑みでもって答えられる。


「坊っちゃまの昼食の支度をしてくる」


対象が赤児だとは思えぬ程に、何処までも生真面目に尽くす侍女の鑑たる微笑みに、そうですか、とだけ返した。













改めて扉の取っ手に手をかけ直せば、案の定部屋には男が一人だけで居た。分厚い本を片手によぉ、と無難に声をかけられ、魔界関連で呼びつけられたのだろうと思った。この男が読書に興じる等ということは考えられない。そんな気配は、今日まで一切なかったのだから間違いはないだろう。


「ねぇ、たかちん」


今日はどうした、と口にしかけた言葉は舌を滑らず止まった。
背後からやって来た男のお姉さまにはい、と返事をする。視線が捉えた彼女は普段に違わぬ身軽な格好で、片手にファッション雑誌を持っていた。姉弟揃って片手に書物だなんて何だか可笑しい。


「もしかして今週暇してない?」
「今週、ですか?」


空いている、と言えば空いているのだが、何と返事をしたものかと思案する。唐突な言葉の意図を探ろうとしながらも、また少し余計なことを考えてしまい軽く首を傾げた。
余計なこととは以前、勝手に部屋に入ってきてオレと談笑をし始めたお姉さまに対し「プラトーン、ん?プランジャー、んん?あっ、プライマリーの侵害だ。出て行け」と男が言っていたことについてだ。部屋主の男はあまり他人を部屋に入れたがらない為に、あの細身な女性の仕業とは思えぬ華麗な固め技が決まって以来、彼女が男の部屋に入って来ることはなくなった。それが今日は珍しいな、というそれだけのことだ。
因みにプラトーンは陸軍の基本戦術単位で二個以上の分隊や班で編成される小隊のこと、プランジャーは流体を圧縮送出する為に往復運動する機械部分のこと、プライマリーは初級、または初級滑空機を指す語だ。日常では比較的使われない語ばかりで何故間違えたのか問いたいくらいの外しぶりではあったが、当時、お姉さまを追い出して直ぐに「ん、プライバシーだったか?」と呟いた男に対し、軍隊漫画など貸さなければ良かったとオレが少しの後悔をしたのは言うまでもない。


「うん、土曜日に合コンあってね、あたし出たくないって言ったら可愛い代役寄越せって。出来たら年下ってね」


ぼんやりと死んだ目をしながら思いを馳せていると、お姉さまはあっさりとした調子で理由を教えて下さった。なるほど、そういう理由でしたか、と相槌を打ちかけたがあれ、と発しつつ身体が固まった。その理由ならば代打は不可能ではなかろうか。


「残念ですが、お姉さまから見たオレの立ち位置がどうかはわかりませんが、オレ男なんで代役はちょっと難しいですね」
「大丈夫、たかちんめっさ可愛いよ、イケるイケる」


大丈夫の根拠を求めても、おそらくは無駄だ。どんなに快活で美しいお姉さまだって「男鹿」には違いない。傍若無人の無理難題はお手の物といった所だろう。


「…、お姉さまの為ならば何でもして差し上げたいんですが、高校男子は模試も近いので今回は遠慮します」
「そっか、残念だなぁ」


明らかな嘘にも、最低限の常識は心得て下さっている賢いお姉さまは大して突っ込みもせずに、今度何かあったらその時はよろしくね、と言い部屋を後にした。入れ違いに準備万端と言わんばかりの侍女悪魔さまがオレと同じように珍しいと思ったのだろう、お姉さまの背中を見ながら首を傾げ気味に入ってくる。どうやら魔王の昼食が始まるらしい。


「、何かあったのか?」


首を傾げてこそいるが、普段に同じくさして興味があるわけではなかろうと思いいえ、と短く答えるだけに止めたのだが、瑞々しい翠緑玉の瞳は逸らされないでいた。今回のことは、多少気になった御様子だ。


「合コンの欠員をちょっと」
「ゴウコン?…あぁ、若者共が金にモノを言わせて徒党を組み自堕落な行為に耽るとかいうアレか。人間は忙しないな」
「ヒルダさん、事実かどうかは別にして、そういうことは言っちゃダメです」
「ふむ、日本人の詫寂というヤツか?」
「…、博識なんですね」

 
秀麗な顔立ちに似つかわしくない言葉に、辞書的な意味合いで詫寂が理解るのに何故合コンは理解らないのだろうか、と少し切なく思ったと共に、もしかしなくとも詫寂についても辞書的な意味合いで頭に入れているわけではないに違いないと考えることを放棄した。人間でさえ人間のすることを憂いたりする位なのだから、高尚な悪魔から見た人間のすること等どれも愚かしく不可解なことばかりだろう。

ガンガンガン、

ペットなのか乗り物なのか未だ判断が付かない、確かアクババとかいう名であったはずの怪鳥が鳴らした強いノック音に肩が少し跳ねた。オレ以外の三名は視線を向けただけで表情筋を微動だにしなかったらしい無表情だ。有り得ない。視線を集めただけで此方からの反応がないと見るや、窓硝子をまた嘴で叩き始めた怪鳥に、さすがは魔界産、と言った所か賢いヤツだと思った。


「古市、頼む」
「あっ  」


はい、と口にしかけた返事は喉の奥に引っかかった。今まで放置気味にあった男がベッドを殴った音が響いたからだ。
刹那、静まった部屋ではあったが、続く何かがないと判断した侍女の鑑が特に気にした風もなくこら、坊っちゃまが驚かれるだろう、と言いながら改めてオレの手に魔王を預け、更に哺乳瓶を手渡してきたことで空間が動く。渡された哺乳瓶を見詰めながら飲ませておけ、ということだろうか、と焦るオレを後目に押し付けた当人は怪鳥と会話をし始めてしまう。鳥と会話、との字面はファンシーだが、グゲゲと鳴く声にはファンシー要素が欠片もない。所詮そこは魔界からの使者らしい。

それにしても早々にこの淡々とした現実逃避を切り上げなければなるまい。お腹を空かせた魔王も、魔王が泣いた場合に美しい容を歪めながら怒り狂う侍女悪魔さまも怖いし、何より背中に刺さる魔王の育て親のぎらついた眼差しが痛い。


「…、ヒルダさん」


溜め息を忍ばせた声は思いの外淀んでいて自分の声だが気持ちが悪い。淀みの原因に「悪」を見つけたのか弱者の細腕に抱かれているだけのはずの魔王はご機嫌だ。


「男鹿借りられませんか?」
「好きにしたらよかろう?」
「いえ、男鹿を」


誰も悪くない、なんて安っぽい言葉が今とても聞きたいような気がする。同時に、もし本当に言われたら言ったヤツを殺しかねない程には聞きたくないとも思っているのだけれど。


「男鹿だけを借りたいんです」

























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