水が巡る場所を無くし、決壊したのは不審を抱いて直ぐのことだった。



侍女悪魔が魔界へと育児道具の補充に向かって数刻、古市は全く男鹿に構うことなく魔王の相手をしていた。それは普段不慣れな育児に苦労する男鹿を気遣う行動でしかなかったが、それこそが男鹿には気に入らなかった。周囲の誰にでも気を遣える古市の優れた順応性が男鹿には自分を排除する行為と等しく思われたのだ。自分の世話をしているうちに培われたはずのソレが、環境の変化によって対象を広げ始めている。古市にとってはどれも男鹿の世話の延長線上にあるものだとしても、不審を抱いた男鹿にとっては自分に直接関わること以外は全て他人事でしかない。


「、古市」
「ん、なんだよ?」


返事はあるが、視線は魔王に向いたままだ。それは元来の男鹿だけの古市ではない。男鹿の目には古市は既に別の人間になろうとしているようにさえ見えた。古市の持つ順応性とは生来発揮されていたにしろ、今まではその全てが男鹿の為にあったのだ。その全ては男鹿の為でしかなかったはずだった。しかし今は魔王に、延いては魔界からの来訪者や増えに増えた不良共にまで発揮されている。古市の世界が自分を残して広がろうとしている、男鹿にはそう見えた。


「古市はオレのモノなんだから、呼んだらこっち見ろよっ」


唐突で、獰猛な叫びと共に拳を叩き付けられたベッドが大きく軋んだ。
いつもの辛辣な言葉と共に呆れたような視線に少しの微笑みを加えて、自分を見詰めながら軽く小突いて叱ってくれさえすればいい、男鹿はそう願っていた。その願いは平生ならばそんなに難しい願いではなかったが不幸にも、そのありきたりな男鹿の癇癪こそが今、古市の抱える不満であった。


「は?、何ソレ」

 
他人の顔色を窺ってしまうのは古市自身の生来の性質によるものだ。他人に優しく、特に女性には紳士的に、と教えられ、同時に我儘な幼なじみの世話をしてきた古市には他人の顔色を自然に窺ってしまう癖があった。頭の回転が良く、些か大人びている古市はそのことを世渡りの為には必要なこと、として認識するように心掛けていたが、男鹿と共にいることで淡い劣等感に苛まれていたのも事実だ。男鹿の為に、と行ってきた言動がまるで穢い自分の言い訳のように感じられていたのだ。強く自由奔放な男鹿を盾にし、ありとあらゆる選択から逃れる優柔不断な自分という幻想は確かに古市の人間としての誇りを傷付けていた。石矢魔に入学し、魔王の育児を始めてからというもの周囲からは物理的な力が最も望まれるようになり、その思考に拍車を掛けていた。唐突な男鹿の幼い癇癪は古市の持つ唯一絶対の誇るべき順応性を貶め、揺らぐだけの自己像を喚起させてしまったのだ。


「天下の暴れオーガ様から見たらオレは「モノ」ってわけだ。弱い奴は「人間」ですらないわけか」
「何言ってんだ?んなこと言ってねぇだろ、話ごまかさねぇでこっち見やがれ」
「ごまかしてんのはお前だろ。ってかさ、文句つけるくらいなら捨てればよくないですかね?不便なだけの「モノ」なんてゴミと同じだろ」


互いに互いが拳を握り締めていることには気付かなかった。ただ、互いを求めることへの執着と互いを失わずにいる為の妄執に思考を濁されている。口をついて出る言葉は全て凶器にしかならなかった。


「阿呆か、お前本気で言ってんのか?」
「本気も何も、お前の普段考えてることを代弁してやっただけだろ。ゴミに代弁されるのが嫌なら素直になれば?幼なじみでさえなければお前みたいなのとは一緒にいるわけがなかったんだ、って」


古市にとって自身が口にした言葉は自嘲と無音の慟哭だった。男鹿にそんなわけがないだろ、と平生のように真っ直ぐな眼差しと軽い口調で否定してほしい、無条件で傍に在り続けることを許されたい、という焦燥に塗れた願望がそこにあるだけに他ならなかった。そこに偽りはない。偽りはないが、確かな誤算があった。

その言葉に傷付いたのは、古市自身だけではなかったことだ。
 
それは疑心暗鬼に捕らわれた二人には気付けない、最大の誤算だった。平生なら男鹿は古市が本気でそんなことを言わない、言ったとしたならば理由があると察しただろう。平生なら古市は自身がそんなことを言わなければならないような状況を生み出そうとする男鹿に、何かがあったのだと察したことだろう。しかし、察するという行為は最低で片方の人間が冷静でいて初めて成り立つものだ。今この場において、冷静な人間はいなかった。そして二人に宿る激情は、話し合う冷静さはなくとも互いが冷静ではないことには気が付ける、というような浅い疑心暗鬼ですらなかった。それは二人の長きに渡る関係にすら未だ見られなかった、確かで完璧なる誤算だった。


「そうか、幼なじみだからってずっと傍にいる必要なんてなかったんだよな」


その言葉はぽつり、と墜ちた。


「幼なじみだからって、これだけ一緒にいる方が珍しいもんだよな」


男鹿にとって自身が口にしている言葉は、やはり古市と同じように自嘲と無音の慟哭に過ぎなかったが、今この場においては最早誤算を塗り固める為の最後の仕上げに他ならない。





「「さよなら」」





どちらが先、ということはなかった。男鹿が口元に浮かんだ自嘲を消して言葉を発した刻と、古市が未練など欠片もないように背を向けて言葉を発した刻は僅かのズレさえ拒むように重なっていた。













違えた二人はもういない。

後に残されたのは、小さな魔王の掠れたような泣き声だけだ。















君がいない世界の広さに、僕は今、戸惑っている























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