スプレーでデカデカと書かれた文字は、今まで見たどんな言葉よりも胸を灼いた。
「古市は、オレと居るの嫌じゃねぇ?」
傍若無人、唯我独尊等が寄せ集められて出来たのだと言われる男鹿から出た殊勝な言葉に、古市は思わず雑誌から視線を外す。何を今更、とすら思った言葉に、古市は怪訝に眉を寄せるだけだ。その反応に対し男鹿はあぁ、うん、と歯切れが悪い。
「あのな、手紙来てたんだ」
続く言葉も要領を得ないものだったが、珍しく沈んでいる男鹿を気遣い、口を挟まずに話に耳を傾ける。男鹿は視線を落とし、自分の手元だけを見ている。
「だけどオレ見なかった、いつものくだらないヤツだと思ってよ」
確かに不良率の高過ぎる石矢魔には古風な不良も少なくない為、果たし状などというものが男鹿の下駄箱に入っているのを古市は何度も見ている。男鹿は興味のあることにしか忠実になれない性質の人間であるから、その殆どは読まれることがないことも知っていた。
「そしたら、朝な、教室の壁に同じ奴からのがスプレーで書いてあった」
手紙に書いた場所に来なかったから目立つ所に書いておいたんだと、と話す男鹿は妙に暗い。あの学校ならば有り得る話ではないか、それこそ何を今更と古市は少し首を傾げる。
そこにな、と男鹿は自嘲するように続けた。
「そこに、オレの名前があってさ、ソレ所謂当て字ってヤツだった」
不良は何故か当て字を好む。画数が増えれば格好いいとか強そうだとか考えているならば馬鹿だと思うし、悪い漢字を並べたいだけならば愚かも良いところだと古市は常々考えている。
「悪の牙に、多い罪でオガタツミってな」
強そうだろ、そう言った男鹿は複雑な色を宿した容で、おそらく無意識に力を込められた拳がいっそ弱々しく、あまりに寂しい男だと感じたのは何処の誰であっただろうか。
「でも、なんとなく印象悪過ぎるだろ?だから珍しく図書室まで行って辞書とか引っ張り出してみた」
使い方よくわかんなかったけど、なんか当て字いっぱい書けそうだった、と続け、自らが探したという当て字を並べる。
惡牙多罪
惡我多罪
緒が多罪
「、なぁ」
何も言わない古市に焦れるように、男鹿は声を張り上げた。低く、唸るようなその声は本来獣か何かに例えられるのだろうが、迷子の子どもみたいだ、と古市はぼんやりと思った。
「オレは古市にとって重荷か?オレはそろそろ古市から卒業すべきなのか?」
離れてほしいんだろう、そう言えよ、とぎらつく眼光が叫んでいる。古市はその視線に応える為に、ゆっくりと微笑んだ。
「なら、オレがずっと一緒にいてやる」
男鹿は眼を見開いて、古市だけを見詰めていた。部屋は酷く静かで、魔王の寝息だけが緩やかに耳に届くだけだ。今朝から機嫌が悪かったのが嘘のように健やかな眠りに浸っているようだ。
「お前がもし、その中のどれかのオガタツミだっていうなら、オレがずっと傍にいてやるよ」
拒絶の言葉を欲しがる瞳に淡く微笑みかける古市は、男鹿が望んでいるものが免罪符ではないことくらい理解っていた。贖宥を望んでいるわけではないことくらい理解っていた。だから、真っ直ぐに哀れな男を見詰めて微笑んだ。
「振るってあるだろ、震える動作。アレな、本来はモノを揺らして活力を与えるとか神霊の力を呼び覚ますとかっていう呪術的な行為だったんだ。もし当て字でさえオレ等を顕す言葉になるなら、オレはそんなことが千も可能なすげぇ人になれる」
オレが何処までも一緒に行ってやる、オレが何時までも傍に居てやる、今更だろ、と応える瞳は何処までも澄んでいる。
「震えるに千でフルイチで、償うに倖せ、でタカユキって読めるって知ってたか?」
だから、
「何も気にしないで生きていけよ、男鹿は男鹿でいりゃいいんだよ」
その迷い無く、力強い言葉は誰の為の言葉だっただろうか。泪すら出ないのだ、と言えば笑ってくれるだろうか。
「オレは、お前がいいよ」
温かい掌に頭を撫でられ、優し気な微笑みに受け入れられ、男鹿の無意識は羊水を揺蕩う胎児を思い描いていた。
無条件に愛される悦びをお前がくれた。