過去拍手文

□僕の欲望が、渦を巻く
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(あ…この音色は……日野さんだ!)

 風に乗って、かすかに運ばれてきた音色に顔を綻ばせながら、音が聞こえる方へと走り出す。
 辿り着いたのは練習室のとある一室で扉が少し開いていた。ガラス窓から一生懸命練習する彼女の姿が見えた。

(ふふっ、一生懸命な日野さん可愛いな……)

 彼女がこの曲を弾き終えたら、声をかけようか――そんな風に思いながら、目を閉じて彼女が紡ぎ出す音に耳を傾けていた。


「――加地? こんなところで何をしているんだ」

「……!!!」

 突然名前を呼ばれて、びっくりして目を開けると、訝しげな瞳で僕を見つめる月森が立っていた。

「びっ、くりした〜〜月森だったのか。一瞬、先生かと思っちゃったよ」

「……驚いたのはこちらも同じだ、こんなところに居られては迷惑だ。一体何を――」

 月森は眉間に皺を寄せ、ふと聞こえる音色に気付くと、そっと室内を覗き込む。

「……ここは今、日野が使っているのか。それで君はここから覗いていた、というわけか」

「あ、ちゃんと日野さんの演奏が終わったら声をかけるつもりだったよ? 校内を歩いていたら、偶然彼女の音色が聞こえてね。その音に惹かれて、ここに辿り着いたってわけ。ふふっ、本当に彼女の演奏は素晴らしいよ」

 嬉々とした表情で語る僕を見て、月森は溜め息を吐いた。

「本当に君は日野の演奏が好きなんだな」

「――そういう月森も、好きなんでしょう?」

「……は?」

「日野さんの……音色がさ。とても綺麗な音だもの。耳に届くと、つい立ち止まって聴き惚れてしまうよね」

「………別に、俺は……」

 月森がそう言いかけた時、日野さんが居る練習室の扉が開いた。

「加地くんに月森くん! ここで何してるの?」

 ひょこりと部屋から日野さんが顔を出して首を傾げる。

「日野さん! 練習お疲れさま」

「日野……すまない、練習の邪魔をしてしまっただろうか」

「ううん、そんな事ないけど、ちょっと休憩しようとしたら部屋の前に二人が立ってるんだもん。びっくりしちゃった。あ、もしかしてこの後どっちか予約してた?」

「まさか! 僕程度の実力で練習室を使わせてもらうなんて音楽科の人達に申し訳ないもの。僕はここで君の音色に、聴き惚れていたんだよ」

「俺は……この先にある練習室に向かおうとしていたら廊下に立っている加地を見つけて、つい声をかけてしまっただけだ。……それじゃあ、俺は練習があるので。これで失礼する」

「あっ、うん、またね月森くん!」

「ああ、待って、月森!」

「……何か?」

 足早に去ろうとする月森を呼び止めると、彼はあからさまに不愉快な顔をして振り返る。

「月森はもっと、自分の感情に素直になった方が良いと思うよ」

「……なっ……」

「じゃあ月森、練習頑張って」

 にこやかにそう告げて、半ば強引に日野さんを練習室に押し戻した。

「ちょ、ちょっと、加地くん〜……!?」

 僕の行動に驚く日野さんを余所に、室内へと入り込む。バタンッ と強く扉を閉めると、日野さんを抱き寄せた。


「え、かかか加地く……っ」

「ごめんね、日野さん……少しの間だけ、このままで居させて。君を――独り占めさせて」


 なんて事を言ってしまったんだろう。彼が本当に素直になってしまったら。日野さんへの想いを口にしてしまったら、二人はどうなってしまうのか――

 それを考えると、不安で不安で、しかたがない。
 僕はその不安を掻き消すように、強く、君を抱きしめた。


*Fin*

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