‥青山の巻‥〜歴史綴り〜

□年表〜源平の争乱〜
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もう源氏と平氏ではどちらが勝つかわかるので勝者、敗者の表記はしません。

1185(文治元)年
2月

《屋島の戦い》
義経に屋島の行宮に奇襲をかけられ、平氏は海上に逃れた。
翌日の志度の浦の合戦にも敗れ平氏は、さらに西海へ。

屋島に奇襲をかける前に義経と梶原景時が「逆櫓」について言い争い、結局は義経に運は味方し奇襲は成功。
梶原景時は義経への恨みを深くしたとか…‥(苦笑)

那須与一(むしろ譲くん/笑)で有名な「扇の的」もこの戦い。

義経が海に落とした自分の弓を命がけで拾った「弓流し」の話も有名です。

3月
《壇の浦の戦い》
戦いの前に義経と梶原景時は先陣について言い争いをします。
景時が言うには「義経殿は大将なのだから、進んで敵陣へ突っ込んではいけない。だから自分が行く」とのこと。
義経が言うには「大将は自分なのだから討って出るべきだ。だから梶原は下がっていろ」と。
周囲の部下達はハラハラだったそうです(3じゃ想像できませんね/笑)
この戦いでは熊野水軍をはじめ諸国の有力な水軍が源氏方に味方をしていました。
開戦当初は潮の流れに乗って平氏軍が優位だったが、やがて潮の流れも変わり、背反者も数多く出て平氏軍は追いつめられた。
最後を悟った平家一門。
二位尼殿は幼い安徳天皇を抱き「海の底にも都がございますよ」と言って海に身を投げた。
経正と敦盛の父、経盛も海に身を投じた。
副将を務めていた平知盛も全てが終わったことを確認すると入水した。
この戦いで生き残ったのは大将だった平宗盛(知盛の兄・鎌倉に送られ後に斬首)と安徳天皇の母建礼門院徳子(知盛の妹)や女房達などだった。
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