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□桜、咲ケ。
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水の入ったウォーターグラスとお絞りを乗せたトレイを持って、私は店の一番隅の席へと向かう。
「いらっしゃいませ」
ウォーターグラスとお絞りをお客さんの前におこうとすると、鼻先を煙草の煙がくすぐる。
あ…マルボロの匂い。
私はその煙草の匂いが、お客さんの持っている煙草のパッケージを見なくても、分かる。喫茶店でバイトを始めて一年位たつけれど、煙草を吸うお客さんは私が思っている以上にたくさんいる。
私はテーブルにグラスとお絞りをおくちょっとの間、息をしない。私はとても煙草の匂いが嫌いだけれど、たくさんのお客さんに料理や飲み物を運ぶ内に煙草の匂いになれてしまった。そんなの、嬉しくもなんとも無いんだけれど。
私はお客さんの吸っている煙草の匂いでどんなパッケージの煙草か思い浮かべることは出来るんだけれど、名前は殆ど分からない。名前を知っているのはマルボロ、SevenStars…それと、ハイライトくらい。
ハイライトの匂い。私は煙草の中でもあの匂いに一番敏感だ。
ハイライトはあの日、彼が吸っていた煙草。彼はそれまで私の目の前では煙草を吸ったことが無かった。私がひどく嫌そうな顔をするから。
彼は聡い人だったから、私の気持ちの変化に気付いていたのだろう。彼自身、煙草の煙は毒だと知っていたのにあの日に吸っていたのは私に対する当て付けであると、私ははっきりと感じていた。
当て付けとは何に対して?私の気持ちが移り変わったことに?それとも私があんなに嫌いだと言っていた煙草の匂いに慣れてしまったことに?
「夏淡、どうかしたか?」
私が弾かれたように顔をあげると、先輩が心配そうに私を見ていた。私はその様子を見て慌てて笑顔を作る。
「大丈夫です。花粉のせいで、少し目が痛かっただけ。」
そう言って外に目を向けると、向かいの公園の桜の木に蕾が綻んでいるのが見えた。あれから一年立つけれど、彼はまだ新しい春が来ないらしい。
私はそうかと言って笑う先輩を見た。この人からも、ハイライトの匂いがする。
「桜が咲いたら、お花見に行きませんか?桐野先輩。」
私の春の訪れも、まだまだ先のようだ。