紫電一閃
□17. 任務
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慶応三年 七月。
季節は巡り、時間の経過を伝えた。梅雨が明け、強い日差しと乾いた風が注ぐ日々がやってくる。
完全な夏になる前の、まだ過ごしやすいとも言える日が続いていた、初夏。
祇園の一角には、一人むくれた少女が川辺に足を突っ込んで拗ねていた。
「もういやです」
特に傍に誰かがいるわけじゃない。ただの独り言。川に突っ込んだ足をブラブラさせれば、バシャバシャと水しぶきが辺りに飛び散った。安定させない足元には、先程菖蒲に冷やしてくるように頼まれた茄子ときゅうり、かぶが笊に浸けてある。拗ねて足を揺らしている少女のせいで、笊は安定せずに漂っていた。
「菖蒲は私を侮りすぎです……。私にだって、それくらい出来ます」
どうやら不満を並べる独り言はまだまだ続くらしい。
「右腕の調子が多少悪くとも、何の問題もないですし、第一私がその辺の不逞浪士に簡単にやられるはずもないのに……!」
「……」
軽く水面にあげていた足をバシャン!と音を立てて水中に突っ込めば、飛沫が飛び散り水泡を生む。
「何故ですか……もう……」
「……」
悔しそうに俯き、未だに唇は尖がらせたまま。少女……――茜凪は立てた膝に頭を乗せて、ついに伸びてしまった。
不穏な空気も出していなかったし、気配なく近付いたつもりはなかったのだけれど、三歩程下がったところで話を聞いていた男は、いつ声をかけようかと迷っていた。ようやく独り言が終了したらしいので、佇んでいるだけだった男が声を漏らす。
「何が不満なのだ」
「全部です」
「……菖蒲が、ということか?」
「違います……。え?」
声がするはずのない方角から聞こえてきて、尚且つ自身に声をかけられていたということをようやく悟った。
聞きなれた声、振り返ればいつもと同じ表情で立っている男……――斎藤の姿が目に入る。
「はじめくん……?」
「あんたを探して先程、別宅に顔を出してきた。そしたらここにいるだろうと聞いてな」
「探してたんですか?」
「あぁ」
「……いつからいたんですか」
本当に気づいていなかったらしい、独り言を漏らしていたのを聞かれたのかどうかを気にしつつ、茜凪の表情は恥ずかしさで紅潮していく。
なんだか微笑ましくて、クスリと笑みを漏らしてから素直に告げた。
「“もういやです”からだな」
「最初からじゃないですか!」
「すまない。声をかけるべきかどうか、迷っていた」
隣に来た男を見上げて、茜凪は再び頬を膨らませる。どうやら本当に拗ねているようで、こんな顔を見るのは初めてだった。
「どうした……?」
聞いていいのか迷ったのだけれど、きっと聞かないと話してくれない気がするので斎藤が問いかける。
きゅうりや茄子に投げられていた視線が一度だけ正面に揺らいで、続けられた。
「はじめくんは、今の私のこと……弱いと思いますか?」
「今の?」
「剣の腕が目録以下になり、男性に絡まれたら負けるほど、私は弱く見えますか?」
戻ってきた視線は不安に耐えるようだった。こう聞けた真意として、茜凪は腕を負傷したことを彼のせいだと思ったことが一度もないのである。だからこそ、一番気にしている当の本人に聞けたのであろう。
「使いも頼めぬほど……弱く見えますか?」
投げられている視線。絡んだそれは、本当に茜凪の気持ちを訴えていた。
なんと答えるか迷っていたところだったのだが、茜凪の気持ちに真摯になってやるべきだと彼は思い、応えた。
「あんたは、弱くはない」
――続く言葉があった。弱くはないが、心配である、と。
しかし、そのままの意味で受け取った彼女はバッと顔をあげて、思いついたように言うのだった。
「そうだ……。はじめくんから言ってもらえばいいんだ……!」
「は?」
「今、ここにいるってことは、はじめくん今日非番なんですよね!?」
バシャッと音を立て、水から上がった茜凪は斎藤の右手と、野菜の入った笊を持ち上げて歩き出したのだった。
「なっ、おい……!」
「お時間あるなら、少しだけ私に力を貸してください!」
「待て、俺の話はまだ……ッ」
暑くなってきたこともあり、少女は下駄を履いてきたらしい。足袋を履かず、濡れたままの足を拭くのも煩わしそうにして、彼女は斎藤を引っ張り、店に戻り出すのであった。
これは初夏に起きた、某日の出来事である。
第十七片
任務
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