『───電源が入っていないか、電波の届かない所に……』 違う、聞きたかったのはこんな女性の声じゃない。一見すると、というか一聞すると同じように淡泊な印象を受けるけれど、裏を探ると人間らしい感情に溢れているのだ、彼女の場合は。 「……どこにいるのよ」 彼女が速いのはよくわかっている。教科書で学んだ知識としてではなく、身をもって学んだ経験として。横に並んだ時の目線の高さは大差ないし、足の長さだって惨めなほどの差はないけれど、どうやら足の回転数というものが根本的に異なっているらしい。神様も、そんなところにまで個性を設ける必要があったのだろうか。ただでさえ彼女とは異なる部分が多すぎるというのに。 置いていかれる者の苦しみを、彼女は知らない。根拠なく待ち続ける時間の長さも、些細なことで疑心暗鬼に駆られる人間の心の脆さも。この場において、私と彼女を繋ぎ止めるのは目には見えない電波の糸だけだったのだけれど、その唯一の絆さえたった今断ち切られてしまった。必死になって縋り付くには多分、細すぎたのだ。 「もう」 任務中である今、電源を切っているなんてことは考えられないし、休日だろうがリゾート地だろうがお構いなしに上司の電波を拾うこの忌々しい物体が、この程度の山中で圏外になる訳もない。それなのにただの1度の呼び出し音すら聞かせてくれない携帯電話は、嫌でも不安を煽る。そもそも携帯電話は安心を得るために持つものなのに、これでは全く、逆効果ではないか。 「……あ。」 見ず知らずの女性の声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。携帯電話の奥に広がるのはただ静かなだけの時間。画面に映された数字は徐々に大きくなっている。それが留守番電話の通話時間だと気付いたのは、既に取り返しのつかないほど長く、不気味な無言メッセージが録音された後だった。何やってるんだろう。早く切断しなければ。 と、その瞬間、私の中に閃くものがあった。ふうん。鼻を鳴らすその声には誰も返事してくれない。聞いてくれる者さえいない。それなのに、私の喉は真っ直ぐに空気の通り道を作って、再び誰かに話し掛けるための準備を始めていた。どうせ彼女はこんな最後まで聞きはしないだろう。無言に痺れを切らしてメッセージごと消去するに決まっている。だったら。 「……え、壊したって」 「いや、壊したんじゃない。壊されたんだ」 「その違い、大事なとこ?」 「経費で落ちるかどうかが変わってくる」 努めて冷静を装った口調で彼女は答える。戦闘であがった息と不機嫌さを押し殺して。お手、と手を差し出せば噛み付いてきそうな雰囲気すらある。まあ、さすがにそれは、普段でも怒るか。 彼女の手には、本来あり得ない方向に折れ曲がり、銅線が飛び出した携帯電話の残骸が握られていた。機械系モンスターを倒した後、こんな感じになるのをよく目にする。もう1度動いたところは目にしたことがない。中のデータだけなら復旧できる可能性はあるかもしれないけれど、消えてしまえば所詮それまでのものだったと割り切るように、彼女の関心は別のところにあった。あの中には私とのメールのやり取りも入っていたのだから、もうちょっと気にしてくれてもいいのに。 「そもそも、2人1組の任務を1人で突っ走ってる時点で、過失ゼロとは言い難いと思うわ」 「おかげで楽ができただろう」 「まさか。逆にしんどいわよ、色々」 「色々?」 「ふくらはぎと、太ももと、足の裏と」 「そういう?」 引き金を引く刹那、指にまとわりつく嫌な重さを、今日の私はまだ知らない。これならば愛用武器のかわりに、登山用の杖でも持ってきた方がまだ活躍の場があっただろう。少し前から、彼女は1人で先を急ぐことが多くなった。まだ私のことを信頼してくれていないのか、あるいは単に集団行動が苦手なだけなのか、真意はどっちつかずで、今は確かめることもできない。 傭兵とはこういう種類の人間なんだ。彼女なら言いそうな台詞でもある。だけど、知ってた?神羅に足を踏み入れた時点で、彼女はもう傭兵ではない。タークスなのだ。私と同じ。 「……まぁ、怪我がなくて、良かった」 「人的被害はな」 「あら、それで十分よ。お釣りがくるわ」 「お釣りは、こないと思う」 彼女はようやく、肩の力を抜いて答えた。そして壊れた携帯電話はポケットにしまい込み、ふっと手に息を吹き掛けたところで、まじまじと私の顔を見つめた。山の中、太陽は既に届いていなかったけれど、眩しそうに目を細めたのは何か意味があってのことだろうか。そして、帰ろう、とだけ告げて、背中を向けて歩き始める。今度は私にも追い付けるスピードで。 後を追う私は、すぐに横に並んだ。靴音が揃う。それが少し、嬉しかった。 「新しい携帯電話を貰う時は、私も付いていくから」 「別に、1人でも」 「駄目よ。最初に登録するのは、今度はツォンには取られないんだから」 『───1件の、新しいメッセージがあります』 知らない女の声がした。 1人きりの部屋にやけに虚しく響く。 『──────────』 背後で鳴っているのは風のそよぎ。 耳を澄ましてやっと聞こえる程の。 それ以外の音は無いに等しく、戸惑いを覚えた。 『──────────』 無価値な時間が過ぎていく。 途中で切らなかったのは奇跡的なことだと言ってもいい。 どうせもう終わりだ。 そう、思った。 『──────…………。』 「…………は?」 突如現れた知った人物の声に、間抜けな言葉が漏れた。 それだけではない。 いやむしろ、そっちではない。 いま、確かに、彼女は。 『──このメッセージを消去したい場合は3を、もう1度お聞きになりたい場合は1を──』 少しの間、逡巡。 私は手を伸ばした。 end. |