長月
□†愛妻物語(3)
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ぱしゃん。
透明な水をすくいながら、顔を洗う。
透き通る水の中、ゆらゆらと水面に映る己の姿。
躰中に水滴の粒をまといながら、牛尾家の第五夫人である御柳芭唐は今日も一人、深い溜め息をついた。
どんなにわが身を清めても、どんなにこの身を飾ろうとも。求める待ち人は、今宵も現われる事はないだろう。
「…御門、さん。」
そこまで考えたところで、想い人の名前を呼んだ。同じ屋根の下にいながら、未だに自分の寝所に現れる事のない、旦那様。
(…どうせ御門さんは、今朝の事などもう忘れている。)
遠回しにだが、気持ちは伝えた。『どうか自分の寝所にも、お渡りがほしい』と。問題は、押しの一手が足りなかった事。
「‥あの時、アイツさえ現れなければ…‥。」
なんとか、御門の口から約束の言葉をと思っていたのに。第四夫人である無涯に邪魔され、約束を取り付け損ねてしまった。
そもそも芭唐は、他の夫人の誰よりも無涯の事が嫌いだった。幼馴染みだかなんだか知らないが、顔に傷のある癖に一番の寵姫だというのが、気に入らない。
他の夫人の誰よりも、御門に信頼されている事も。明らかに自分よりも、御門に求められているのも。
全部、全部、気にくわない。
(…とにかく、目障りなんだよ。あの夫人…!)
悔しさに一人、歯をくいしばる。とにかく、あの夫人から御門を奪いたい。
自分のものに、していまいたい。
そうだ。御門が一度でも、自分の元に来てくれれば…。チャンスはいくらでもあるのだ。これでも、元遊女。それもナンバー1として遊戯屋で名を馳せていた自分だ。
当然、夜のお相手には自信がある。
一度でも自分と夜を供にすれば、きっと御門だって、自分を選んでくれるはずだ。
だが――‥そんな自信も、肝心の御門が現れない事にはどうにもならない。
あぁ…。虚しい。
きっと自分は、今宵も一人であのだだっ広い寝台で眠らねばならない。
一人寝の淋しさを感じながら芭唐はもう一度、深い溜め息をついた。
すると―――…。
ガラガラッ!‥と、凄まじい物音をたてながら、召使である朱牡丹 録が扉を開けて浴室へと飛び込んできた。
『…奥様!旦那様が今夜、こちらにお渡りされるとの事です気…‥!!』
その言葉を聞いた芭唐は、目をまるくした。
待ち焦がれていたチャンスが、やっと訪れたのだ―…。