Paordy-novel

□金曜の恋人
1ページ/1ページ

 ※…不倫




シャワーの詮を閉めるキュッという音。いつの間にか、俺の聴覚は、それを敏感に聞き取るようになった。
その音は俺にとってまるで、敗北を知らせる合図のようだ。

俺がベットの上でダラダラ煙草に火を点けていると、濡れた髪を拭きながら戻ってきた上司。
何となく浮かない顔をしている。時計を見ればとっくに零時を回っている。俺は笑った。

「寝てただろ、アンタも」

「うん。うっかり。疲れてたんだ、ここんとこ忙しかっただろ?」

穏和そうに苦笑して、大鳥さんは目を細めた。
向こうに遅くなった言い訳をする時にもこういう目つきをするのだろう、と俺は思って、視線を逸らした。

「…奥さんも寝てんじゃねぇの?」

「さあな」

まるでどうでも良さそうに大鳥さんは言った。でも、それが彼なりの不細工な優しさであることはわかっている。
彼は俺の前では、いかにも夫婦仲は冷え切っているように振る舞うが、少なくとも奥さんは彼に執着していると、俺は知っている。
それは、ほんの小さなことから推測できる。
彼のワイシャツがいつも皺一つなく糊とアイロンがきいていることや、
衣変えの時期になると彼が見慣れない真新しい靴下や下着を身につけていること、財布の中に常にある程度の金額が入っていること。
幼い子供の写真も入っている。
それらは、彼女が今も彼をほったらかしにせず、彼の生活に家庭が深く関わっていることの証拠だ。
時々、そんなことをいちいち数え上げて比べたり測ったりする自分の底の浅い思考が嫌になる。
何を敵視しているんだ、と己を嘲笑うことさえある。
向こうは如何にも順風満帆な家庭。かたや俺は愛人とすら呼べない、
上司と部下でズルズル続いているだけの、ただの、


「君、タバコの銘柄変えたのか」

紫煙を追っていた目を向けると大鳥さんはまだ上半身裸で、顔をしかめていた。

「それがなに」

「そういえば今日はコロンも変えてたな。女か?」

「さぁ?どうだか」

言うと、彼は恨めしげな目をくれたが、俺は涼しく肩を竦めてやった。
セックスの回数なら、電話の頻度なら、一日に一緒に居る時間なら、酒を飲んだ数なら、俺の勝ち?
……そもそも、そこまで張り合い、競い合う価値が、この男にあるのだろうか?


「ソレ、前の物より臭いがキツいぞ」

「そうか?アンタの浮気がバレたりしてな」

あくまでも冗談。そんなのどうとでも言いわけ出来る。
女の香水を付けてるわけじゃなく。煙草だって、喫煙席に座ったとか、同僚が煙草を吸う奴。とか。
残り香とかいうドラマで見そうな女の手口は、俺には使えない。
大鳥さんは苦笑をしながらシャツのボタンを止めている。
少し浅黒い肌が、白いシャツに覆われてしだいに見えなくなっていく。
俺が彼を独占できる時間に幕を引くように。



「まぁ、来週から俺出張だし。せいぜい家族サービスしてろよ。パパ」

大鳥さんの唇が、ちょっとつまらなそうに歪んだ。
そこでまた、微かに家庭との差を計る自分の愚かさが、しみじみと嫌になる。



最初は大鳥さんが声を掛けてきて流れで呑みに行き、更に流れてホテルに行ってからの関係。正に行きずりだったはずで、
その翌朝、大鳥さんから頭を下げられた。この一度きり、そう唇を噛んだ上司の顔を見た時に、
やめよう、と俺の頭の冷静な部分は確かに考えたのに、俺は、続けたい。と口を動かした。
俺のその言葉を聞いて大鳥さんは一瞬だけ、ほっとした表情を見せた。
これで、この関係は俺が望んだと言う事になるのだろう。どうして先回りしてしまったんだろう。
冷静な俺がため息をつくのを聞きながら、俺は彼の手をとったのだ。



まだ秋だというのに今夜はかなり冷える。エアコンのリモコンを手にしたとき、大鳥さんは言った。

「悪いと思ってる」

俺は首だけで振り返った。大鳥さんは面倒そうな手つきでネクタイを結んでいるところだった。
横顔がいつになくオッサンじみて見えて、胸を衝かれた。
家庭を持ち、社会の波に揉まれて気苦労の多い生活を送ってきた大鳥さんの目元には、その長い時を相応に現したシワが刻まれている。不意にそれに気づいた。

いつまでも、何も変わらないようなつもりでいても、時はきちんと流れる。
俺たちの関係だけが特別に時に置き忘れられるわけはない。
俺も彼も着々と年をとる。変わらないものなんて何もないのだ。
俺は初めて、自分の内部を覗きこんだような気持ちになった。

「なぁ…」

「ん?」

「俺と、」

「うん…?」

大鳥さんは寝室の薄暗がりから俺を見た。
上着を腕にかけ、胸ポケットから煙草のパックが透けて見える。
いつもの、だけど、明日はいない今この時、金曜の夜だけの、男の姿。
それでも。
俺は続く言葉を失い、喉までせり上がってきたそれを飲み下した。
俺と、なに?ずっと一緒にいよう?逃げよう?暮らそう?どれも馬鹿げてる。
不自然で背徳的でどうしようもないこの関係に、未来を望むほどの価値は無い。

大鳥さんはじっと俺を見ていたが、やがて、少し寂しげに言った。

「じゃ、再来週だな。電話する」

「あぁ」

「君も、たまには仕事以外に電話寄越せよ。そこまで気にすることないだろ」

「わかってるよ」

毎度お馴染みなやり取り。大鳥さんは、俺から電話をすることなど無いと知っていながら言っている。
俺も決まって、わかってるよ、とだけ答える。
本当は彼の言う通り、たまに電話くらいしたって構わないのだろう。
女じゃあるまいし、携帯に『会おう』とメールを送ったって、不自然には思われないだろう。
だが俺は頑なにそれをしない。意固地になっているのかも知れない。
自分が何かにつけてどれほど罪悪感に鬱々とした思いをしてるか、諦めようとしたか、別れようとしたか。
考えれば考えるほど面倒くさくなって頭の中で絡まって、しまいに結論などどうでもよくなってしまったが、
でも俺は、自分からは連絡を取らない、頼らない、要求しない、と決めている。
そうやって全てに言い訳し、妥協して、俺は彼との関係を引きずってきた。
惰性で流れ出したオールのない小船は、今や、広大な淀んだ湖の真ん中を漂っているだけ。




「大鳥さん」

「ん?なんだ?」

「今朝コロン忘れたら伊庭にかけられた。煙草は売り切れで良いのがコレしかなかった。それだけだ」


冷静な俺が胸の奥底で溜め息をつくのを聞きながら、俺は、彼の手が伸びてくる金曜が再び訪れるのをまた待つだけ。

新たな煙草をくわえて火をつけると、エアコンの風に吹き散らされて小さな火の粉が空を舞った。弱々しく情けない、懺悔。











●●

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ