榎本他CP

□海と空と、君へ
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「…まだ、そんな所に居たの」

そんな声よりも先に、珈琲の匂いが先に届いて、誰かなどと問う事も無く背後に近付いた存在を榎本は認めた。
船縁に腕を置き、じっと水平線を見つめ続ける姿に、沢は小さく溜息を吐く。


「あのさ、艦将…」

「まさか、泣いてないよ」

沈み込んだ訳では無く立ち直れない訳では無い。
それ程迄に自分は純粋でも若くも無い。
榎本が笑うと、沢も笑い返した。その笑顔はどちらも上手くは無いが。


「…沢さん」

「…何?」

「やっぱり、痛いね」

何度それに直面しても慣れることは出来ないと、
その表情を隠すよう、夕日を受けて葵の章が光る士官帽を下げ。微苦笑を浮かべて言う。
その姿を僅かに痛まし気に見つめながら、彼の副船長は隣りに並び立った。

「当たり前だね」

近しい者の…仲間の死になど、容易に慣れてしまう者などいる筈が無い。
人の死に慣れる事のほうが恐ろしい。
髪を潮風に靡かせながら、陽が水平線の向こうへ隠れ、じわじわと深く色を変えてゆく水面を見つめた。

此処では無い、同じような深い深い水底へと仲間の骸を弔ったのは少し前の事だ


「…沢さんさ、覚えてるんだよね」

正確な名前や、好きな物、生まれ育った故郷の話。
言葉を交わしたのならそれを全て。
どれだけ時が経とうと明確に記憶しているのが副船長で


「あぁ…うん。それしか出来ないから」

死した者にしてやれる事は、一人でも多く、その者が生きていたという事実を記憶してやる事だけだと沢は言った。


「でも、釜さんのように、顔を覚えておく事は出来ないんけどね」

何を忘れたとしても、顔だけは忘れずにいるのは将の性だった。


「…覚えてるよ。笑った顔も、泣いた顔も…全部さ」

目深に被った帽子の鍔に手をかけ男はその表情を更に深く隠す。

その姿に、ふと、あの日の記憶が蘇る。
この日ノ本で始めて戦争と言うモノを自身が体感した時の事。
訓練や机の上で如何にすれば人が死ぬか、自分達が生きられるか、さんざん今まで學んできて、
そして実際に現場に立ち、敵、味方、人の死に直面した時の事だ。

人殺しがしたいわけじゃない。でも、それが戦争だから仕方無い。
自分で殺したわけでもない。軍艦で、大砲で、兵で、殺したから。
だから、人を斬ったことの無い自分の手は汚れていない。自分は人殺しでは無い。
そう理由を幾つもつけて、保身をしても、
ただ自分は自分の手ではなく、時に兵器を使い、時に他人の手を汚しただけ。
その自分の行為そのものが、汚らわしい。
自分の手は汚れていない。けれども、自分の手ほど汚ないものはない。
言いながら表情を隠すように深く帽子を落とし、堪えるように胸元を握り締め、
唇を噛み締めて頬を零れ落ちる雫で濡らしていた姿。
勝鬨を挙げる仲間の歓声が遠くで響いていた中で、小さなトゲのように、それは沢の記憶の端に残っていた。



「…ッ?!…沢さ…?」


士官帽子を無理矢理奪えば、戸惑うように揺れる眼差しに合う。
その表情を見ないフリをしながら細い髪に指を伸ばし肩口へと引き寄せた。


「………慰めてンの?」

「いけない?」

小さく上がった声を肯定すれば、その返答にくつくつと喉を震わせて笑う声がしてすぐ広い背中に腕が回る


「いや…、……悪くない」

そう言って甘えるように額を擦り寄せた。




どんなに別離が胸を痛めようと、愛しい記憶が、愛しい存在が、未だ此処に在るのなら。


…今は、祈ろう


痛みも苦しみも消え去った後の未来で、貴方がどうか安らかに…笑う事ができますように。









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