黒×榎novel

□ハッピーエンド
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人生は、お伽噺や歌劇みたいにうまくはいかない。 山あり谷あり、仕事で成功したと思ったら、大失敗。けれど挽回して同僚と笑い合い、今度は恋人と喧嘩して泣いて喚いて、最後にはハッピーエンド。そんなのは、作られたシナリオの中だけの話だ。

「現実は…そうはいかないもんかなあ…」

そもそも、自分達の出逢いからして経緯までが歌劇的なモノと言ってもおかしくないわけだが。
決められたルートを行くのはごめんだが、時には自分の未来を知っておきたくもなる。どん底の気分に沈んでいる時、死んでしまいたくなる時、このツライ時間がいつまで続くのか。神様のシナリオなんてものがあるのなら、ちょっとばかり覗かせてもらいたくもなる。そう思うのは、世知辛い今を生きる人間だからこそだろうか。

ふぅっと細い息を吐いて榎本は、静まり返った官舎の自室に視線を巡らせた。
いつもよりずっと遅い時間に帰宅したのに、案の定、出迎える者の姿はな い。

「なんで…いないかな…」

あと数分で、日付が変わる。 ただの平日だったら気にも留めないのだけれど、 生憎と、今日は単なる平日ではない。
八月下旬。お盆が過ぎ、北国の夜は早くも残暑が薄れてきたこの季節。
そんな北国の短い夏を偲んで、絶えず聞こえる夏虫の囀りに耳を傾けながら夕涼みに一興やれればいい。思うけれど、予定は立てられそうにない。
冬を前にまた調査にでも出ようか。きっと困った顔で渋々承諾するだろう黒田を思ったら、榎本の顔には苦さを含んだ笑みが浮かんだ。

「…あのバカ…」

恨みと諦めと、ほんの少しの悲しみを込めた榎本の呟きが、部屋に落ちる。 八月最後の週。本日25日は、めでたくも榎本の誕生日だ。それもあと、三分で終わるのだけれど。

「腹減った…」

帰宅したら黒田がいて、洋酒の一本でもあって、グラスが二つが並んでいて、肴に今日の一日を労い合うなんていう夢も見た。もちろん、夢は夢。現実にそうならないのはよく分かっている。 それでも今日くらいはもしかしたらと淡い期待を思っていたから、その分落胆は大きい。
今日に限って晩飯を逃した腹の虫も、榎本の心情を表すように切なく鳴いた。

「なんで、いないかなぁ…」

同じ台詞がつい口を吐く。 黒田には、昨日の朝会ったきりだった。今夜は帰れそうにないと通達が入ったのは、昨日の今頃。
その時でさえ今日のことは少しも触れず、用件だけを告げに来た使者に、ただ、おやすみなさい、と言われたのがわざわざソレだけを伝えに来てくれた者に対し八つ当たりも甚だしいが、無性に苛立った。
先方は何かと忙しいとも聞かされ敢えて突っつきはしなかったけれど、今思えば匂わすくらいはしておけば良かったのかもしれない。そうすれば誕生日にまで、こんなもやもやした気持ちにならずに済んだような気もする。

「あと二分…」

上着を脱ぐのも忘れ、榎本はしんとした室内に響く秒針の音に耳を傾けた。時間の流れはこちらの都合で止まってはくれない。
今日一日、お祝いはたくさんしてもらった。指折り数えたら、両手でも数え切れない。同僚や部下、部署の違う人達にも廊下ですれ違うたびにおめでとうと声をかけてもらい、その度にほくほくとした気持ちにさせてもらった。 有り難くも頂戴したプレゼントは、大きな紙袋いっぱいに入って、今は榎本の足元でリボンを解いてもらうのを待っている。
ありがとうの言葉を、今日だけで何回口にしただろう。それはとても嬉しいことで、とてもとても幸せなことだ。 それなのに、榎本の心は一箇所だけ、開いた穴に冷たい空気が吹き抜けている。一番祝ってほしい人からは、本日中にその言葉をもらえそうにない。
まぁ、それでも惚れた弱みであれこれ許してしまうのだから、存外自分は甘い男だったのだと、彼とこういう関係になって初めて知った。もしかしたら彼限定なのかもしれないけれど、今更他の誰かと比べようとも思わない。
諦めを口にしたはずなのに、自分の頬は思った以上に緩んでしまって、榎本は隠さずふっと笑みをこぼした。
別にもう二度と会えないわけでもな いし、幸い明日はもう金曜日。いつものように出勤し、業務が終わればそのまま彼へと直行すればいい。


「祝ってもらうような歳でもないしね…」

もう三十路過ぎだ。たまたま今になって生まれたその月日を祝う風習が少し巷に浸透し始めただけである。そして周囲にそんな風習を重んじる人間が多いだけ。
榎本は自嘲気味な笑みを冷えた空気に捨てて、もう一度時計の針を確認した。

8月25日も、あと30秒で終わる。

いっそ、カウントダウンでもしてやろうか。悔し紛れも手伝って、榎本は一際大きな溜め息を散らした。

「えっ…?」

バタンッと、漸く背広を脱ごうと腰を折った榎本の耳に、乱暴な音が届く。近所から苦情が来てもおかしくない、玄関の開く音は、否応なしに榎本の鼓動を跳ねさせた。期待するなと言われても、無理だと思う。

「え、っ……な、っ!!」

階下からも文句を言われそうだ。駆け抜ける速さで廊下を行く足音は、そのままの勢いで自室のドアを開いた。入って来たのは当然、待ち人である黒田だ。 けれど、珍しい表情をした黒田を認めたか否かで、榎本はすでにその腕の中にいた。

「っ…榎本さ…、誕生日、おめでとう」

息を切らせた黒田の科白が吐息と一緒に耳元へ落ちる。
次には間に合ったと安堵する黒田を横目にふと滑らせた視線の先で、秒針も含めた時計の針が、ぴったりと真上で重なる瞬間を見た。
聞きたかった音で、聞きたかった言葉をもらい、 望んでやまなかった温もりを与えられている。 欲しかった日には一秒にも満たなかったけれど、 生まれた次の日の一番最初に刻まれた時間を、榎本はその望んでやまなかった男に抱きしめられて迎えた。

――人生は、お伽噺や歌劇みたいにうまくはいかない。

けれど今、榎本はまるで歌劇のワンシーンに身を置いている気分だった。 遅くなってすみもはんと、ぎゅうっと腕に力を 込めながら言う彼の方こそ、きっと主演俳優だ。
馬を飛ばして来た、だなんて、それこそどこかのシナリオにありそうで、榎本の頬は否応なしに緩んでいく。
自分のために慌てて帰って来てくれたのだろう、 少し汗の匂いを感じた榎本は、その胸に顔を埋めて広い背中に腕を回した。

「ハッピーエンドにしてくれるなら、許す」

告げた科白の意味を黒田が知ることはない。 けれど、いつだって魔法のように一瞬で幸せで胸を埋め尽くす黒田に榎本は、温かい気持ちのまま、素敵なエンドロールを迎えられるような気がしていた。




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20120825

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