黒×榎novel

□たかが花、されど桜
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もう4月に入り。暦では春先だと言うのに、やはり、この北国は冬が居座り続けている。
感じるのは凍てつく寒さ。視界に広がるのは未だ白さを残す雪が地面に這いつくばる姿。
空気は冷たく吸い込む度に肺腑を冷やして、吐き出す息もふわりと白く。
春を迎えるこの国で、この北の果てしか居場所が無くなり縋っているような名残惜し気な冬の気配に、どこか物悲しさを感じて。

その光景を、彼は食い入るように見つめていた



「榎本さぁ」

穏やかな声に振り向けば、いつ見ても変わらない輝かんばかりの笑顔があり。
榎本は小さく笑う

「なんで来たの」

相手の邪気の無い笑顔に、自分も笑わせられながら、口からはそんな突き放すような言葉しか出てこない。
いつまで経っても寒いままのこの地と同様に、いつまで経ってもだ。
ただ時が経つにつれ、こんな悪態くらいじゃ満面に浮かぶ相手の笑みは全く崩せないと思い知らされるばかりで。
こうして、酒の席を抜けて一人酔い醒ましに外の空気を浴びに来たくらいなのに
振り向けばいつの間にか在る大柄な姿に、笑みを返す余裕も出てきた。


「誰の宴会だと思ってんの」

主役が場を空けてどうする。と榎本は眉を寄せた。

今宵は、東京に詰めていた黒田が至急の用で北海道に一時戻り。それが無事に片付いたと言う労いを含みながら、
また明日には早々に東京へ戻るため送別も兼ねた黒田主催による黒田の為の宴会だ。
なので、榎本は黙って一人中座して来た。澄んだ空気を吸いに来ただけで直ぐに戻るつもりだったし。


「おいは別にいいんじゃ」

緩い笑みを浮かべる黒田は一本の徳利と銚子を2つ。隠していた後ろ手から出した。
いや、よくないよ。と榎本は思うが、
黒田が声を掛けたとあって永山を筆頭に薩摩出身者は無論、九州勢は宴会に全員参加しており。
お国柄とも言うべきか酒豪ばかりが集まっている訳で。主役が居ようが居まいが盛り下がるどころか
建物の木板を簡単にすり抜けている陽気な(ネクタイを頭に巻いて踊っているような。チェストだ何だと言っているような)声は外にだだ漏れしている。中の様子は見なくても容易く想像できた。
だから榎本も、じゃあ別にいいか。と言う気になり。

辺りはどこまでも済み渡った肌寒い外気しか無い中で2人きり、

「おいと呑んでたもんせ。榎本さぁとゆっくりしたいんじゃ。まぁた暫く行かんとならんち…」

太い眉を八の字にして榎本の横に寄り添い。でかい身を小さく丸めて、心底嘆きながら杯を差し出す黒田。

「はいはい、お疲れさん」

メソメソと今にも泣き出しそうな面構えに榎本は吹き出してそれを受け取った。
榎本に断る道理も無ければ、榎本だって会えたのが久々なのだから2人ゆっくりするのもいいかと思う。
そこは絶対に態度に出さないが。


もっと東京に居なくていいのか心配になるくらい頻繁に黒田は北海道に居る。
と言うよりも、居たがっている。
しかし東京の政界内では、何かいろいろと事情が渦巻き立て込んでいるらしく、
黒田了介改め黒田清隆は、薩摩のあの中心人物西郷や大久保に次ぐ男。
開拓使次官で事実上の実権者ながら現地に居続けるのは難しく。
その為に、現場には専門職の外人も雇っていて。榎本ら判官が居て。黒田の我が儘が簡単に罷り通るわけがない。
それでも次第にマシになってきた交通の弁を駆使し。僅かでも暇を造っては往き来をしているのだ。

そしてその度に疲れや悲壮感に満ちた顔をして戻って来るが、
いつも榎本が声を一つ掛けるだけで、目の前でみるみるそれが消え失せてゆく。

「じゃあ、今のうちに多めに労っておかないとね」

揶揄を交えて榎本は黒田の手から徳利を取り上げ、それを黒田が握る銚子へ傾けた。
礼を言い笑って喜んだ黒田は、自分の杯にも酒を注ぎチビりと口付けている榎本の頭へ手を翳す。
慈しむような手付きで。


「寒うないんか?」

「うん。」

喉に流し込んだ酒は温かいが、それ以上に前髪を揺らす掌が暖かい。
これ迄も、何度も差し伸べられてきたその掌が、少し憎くて、苦しい時も確かにあったが、今はただ擽ったくて、
榎本は酒が溢れるから触るな。と抗議して身動いた。
ふられた黒田は一つ微笑み、榎本に触れるのを止めて自分も杯の酒を一口で飲み干す。


「まぁ、今夜は特に冷え込んでる方だけど。これでも、こっちもだいぶ暖かくなってきたよ」

「そうかのう」

「了介は久し振りだから、体が寒さを忘れてるだけ」

そうかもしれもはん。と、黒田は苦笑しながら、まだ冬の匂いが濃い空を見上げた。
その横では榎本がちゃっかり手酌で酒を更に進めている。
黒田の場合2人で仲良く半分ことはいけない。中に居た時既に黒田は微酔いしていたから、これ以上少しでも呑ませない為の配慮だ。

「おいは、今年の雪見酒はこいが最後かのぉ」

「そりゃもうココしか雪は残ってないだろうし。了介が次に戻って来る時は全部解けてるさ」

「そんじゃあ次は桜でもすなぁ」

「まぁ、この辺は山桜多いし…」

並々の酒で満ちる杯をまた口に運ぼうとした榎本は、寸手で手を止めた。
歯切れ悪さに黒田が、ん?と榎本を見下ろせば
榎本は目を伏せ、杯の水面を見詰めていた。

「榎本さぁ?」

「せっかく熱燗だったのに、もう冷めてる」

当然だろう。まだ名残雪の残る夜の外だ。
席に外套を置いたまま出てきたが、シャツ一枚だとやっぱり肌寒い。
どうでもいい事を漏らした榎本はクイッと勢いをつけて酒を煽った。
黒田は何て事ないその仕種に、俄に眉を寄せた。
別に、くすねて来た酒を気付けば榎本が殆ど呑んでいる事が気になった訳でも、
せっかく持ってきたのに文句を言われたのを気にした訳でも無い。

「榎本さぁ、桜が好きじゃなかか?」

いや、まさかあの榎本が。と黒田は思った。
すると案の定やっぱり榎本は、そんなわけないとキッパリ否定し黒田を見上げる

「侍が桜を嫌っちゃいけないさ」

「あい。そいで、さっきは何を言い掛けとったんじゃ?」

「別に、なにも…?」

榎本が、ぬるくなった酒を遂に徳利ごといった。もう黒田に渡す気は無くなったらしい。
結局、黒田が持ってきた一本なのに一杯しか貰えなかった。しかしそんな事より気になるのは口ごもる榎本だ。
酒で口を湿らせたいのか喉を動かして流し入れる榎本の言葉を、黒田は急かさず
笑みを崩さず黙って待った

すると榎本は分が悪そうに、少し目付きを険しくさせ黒田を見上げる。
何が気に食わないのか知らないが本人は睨んでいるようだ。
どうせ見詰めてくれるなら、もっと優し気な上目だと可愛いのに。と言う要望は胸の内だけに黒田は留めておく。


「勿論、桜は好きなんだけどさ…。よくよく考えたら、」

「あい」

榎本は、どこか前方の景色を見て口火を切り。
なんとなく手持ちぶさたな黒田は握る空の銚子を掌で遊ばせる。

「ココの桜を一度もゆっくり眺めたこと無いかもしれない。ってね」

黒田は手元から横目をずらし、榎本の横顔を見た。
その表情は背後にある建物の窓からの灯りと、頭上にある月の控え目な明かりでよく分かる。
春は一瞬で過ぎるから、どうしても見逃す。と榎本は黒田に向けて微笑った。


確かに、長い長い冬と一面緑一色に染まる夏に大地は包まれるが、
その節々の境目である春と秋はとても曖昧で、瞬き程で過ぎてしまう。

黒田も一度ココで春を迎えた事がある。それはほんの一足違い程度の束の間だったが。
その時、遅咲きの桜が僅に残っていて驚かされたことは、忘れられない。
否、それが遅咲きか、或いは散り遅れか、黒田には知る術も無かったが。
この辺境の根深く長い冬を越え漸く芽吹いたその小さな花が、鮮やかな色を見せ、咲き誇る様は力強く。
本当に綺麗に思えて、黒田はまるで奇跡を見せられた思いがした。
潔く散ってこその桜と言う人は多く。散らない花などあるはずも無いのに、
それが咲き遅れであるようにと、散り急がぬようにと、黒田は願わずには居られなかった。
が、それを同じ時の、同じあの場所に居た榎本が見ていられた余裕があったとは到底考えられない。
もとより、自分たちがこうして一つの街を造り始める以前に榎本はココを訪れているらしいが、
その時のココはとても冬は越せたものじゃなかったのだから夏に目掛け出向いたと聞く。
春の後先くらいは出会していたとしても、その時もまた榎本は桜など気にしていなかったんだろう。
春は確かにあっと言う間で短いかもしれないが、
榎本は、この広大な地の花を一つ見るよりも、もっと広い位置からこの広大な地を見ているような奴らしい



「今年は、見れるかな?」

きっと綺麗だろうに。と、榎本は遠い目をして景色を見遣る。
黒田も夜に紛れる名残雪と冷えた空気で澄み渡る空を仰いだ。

心中で、一日でも早く春と共に桜の便りがココまで辿り着くのを願い。
視線を戻すと、榎本はまだ景色を見ていた。

「榎本さあ」

「ん?」

呼ばれた榎本の顔がこちらに向くのを拾い、不意に唇を奪った。
片手で抱き寄せて深く口付けると、銚子を握る手で胸板を押す。それはあまり意味を成していないが

「………ン、」

眉を寄せながらでも答える人の華奢な腰に回す腕に更に力を入れ、
これ以上密着のしようも無いほど抱き締め綴じ込めた

「榎本さぁ」

「…ん?」

「労う言うたんはおはんじゃ。労ろうてくれんか」

「でも、寒いなら早く戻ろ?長く空けてたら誰か呼びに来るよ」

「あともぅちっと…」

「もぅちっと?って、どのくらい?」

唇を放した途端に、榎本は騒がしくなった。
ケラケラと一人で楽し気だから邪魔をしたくは無いが、黒田的には面白くなかった為、
もう一度、笑う口許を噛み付くように塞いでやった。


「おいと見もはんか、」

抱き締めたまま、その首筋へ顔を埋め囁くようにして呟いた。
すると途端、榎本は大人しくなり。何故か榎本まで少し声を鎮め、


「桜を…?」

うん、と肩で首をコトンと落とす。

「咲く頃には戻って来もす。榎本さぁと見たいんじゃ、ここの桜を」


「うん」


「約束しもんそ」

必ず。と力強く抱き締めていると、
指切りの代わりと同じくらいの強さで抱き返された。


「了介と、2人で見たい」



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