黒×榎novel

□たかが花、されど桜
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書類の束の最後の一枚に、名前を書いて判を捺印。
それを今度は読み返し誤字脱字の最終確認。
一通り目を通し、既に調査書類がうず高く積み重なっている頂上に乗せる。
機械的に一連の動作に無駄な動きなど一つも無く。ひたすら同じ速度で同じ動きをし続けて漸く、


「……終わっ、たぁ─…」

万感の思いで言った榎本。
書類が一掃され数週間振りに相見た何も無い卓上に、力尽き、ふにゃっと突っ伏した。



そして直ぐに、コツコツ、革靴で床板を静かに鳴らす音が耳に届く。
いつもならこの時点で直ぐに跳び起きて、扉を中から開いて出迎えたりもする。
ただ今日は突っ伏した体勢から執務机の表面を感じると達成感に酔しれ。どうにも動く気になれない。
だから、まぁいいだろう。
本当は出迎えなど強制されて無いし。下手に『部下』を装おうものなら、相手の機嫌を悪くするだけと言うのも承知している。それはそれで問題なのだが、

使い果たした頭の中で榎本がそうこうしている間に、
足音は部屋の前で止まり。ノックをした後にガチャと扉が開かれた。
室内に現れた人の気配は静かに机に近付き。
榎本は僅かな期待をしつつ、やっと重い瞼をゆっくり押し上げ、


「…─りょ、」

「いや、私です。」

直後に榎本の意識は覚醒。

「ッッッ─…!?」

声に成らない声を出し。
上半身をガバッと起こした次の瞬間、その反動で膝が執務机の裏側に衝突。ドンッ!と鈍い音が響いた。
そのまま榎本は再び卓上に伏し、声も出せず痛みに悶絶する。
椅子に座る時の癖で脚を組んでいたのが仇となった。
いや、それより後先を深く考えもせず無意識と言うか、慣れと言うか、口走った単語がいけなかったのかもしれない。

「すみませんね。私で」

只でさえ色々と打ち菱がれているところに追い討ちを掛けんばかりの科白が頭上から降ってきた。
己と違い一切甘えも許さず非の打ち所は無いほど『部下』を完璧にこなす榎本の『部下』声の主松平は、
上司のそんな一連の動きに眉一つ動かさず見下ろす。
しかし、眼だけはとてつもなく冷ややかだ。

「そろそろ全ての書類を片付けてぶっ倒れているかと思ったんですが、相当お疲れのようで…」

「…─ぅ、るさい…」

榎本は、机に張り付く場所から松平を見遣った。
涙目のため凄味は無いが、そうしなければ納まり切らない。
打ち付けた膝がじんじん痛む。が、それ以上に自分がイタ過ぎる。
幾ら少し微睡んでいたとは言え、否だからこそ、よもや己の上司と部下を間違えるとは、どうかしてる。
そして、かなり面倒な事をやらかしてしまった。
もしこれが松本であれば、思いっきり苦笑して呆れられつつも軽い笑い話しにしてくれるだろうが、
目の前の松平は険悪な面持ちである。
松平は榎本が呼び掛けようとした男、黒田を、間違いなく疎ましく思っている。
それは仕方無い事だと思う。敵だった者同士、相容れる事の方が珍しいのだ。
もともと師弟であった大鳥や、自分とは訳が違う。

しかし、寄りにもよって…。流石に榎本も反省せざるを得ない。


「……ごめん、」

「いいえ、気にしませんが。惚気で怪我はしないで下さいよ」

「のっ、ち、違うから…!ちょっと疲れてて…、アレ、無意識っつーか、その」

無意識だったのか。無意識で出てきたのか。と、松平の目が言っている。
頭の横に文字がイラッと吹き出しているのが見える。気がした。
これ以上余計な事を言うと取り返しがつかなくなりそうで、榎本は下手に取り繕う事を諦めた。
たぶん、その方が賢明だ。

気まずくて、膝が痛くて、耳が赤いのを自覚しつつ、机に伏せたまま顔を上げられないでいると、
不意にコトン、と机に何かが置かれる気配がした。
その僅かな振動と、耳から頬を掠めてく暖かい気配に、そっと瞼を開けて確認すれば、
御盆に乗せられているのは湯気を昇らせるコーヒーと、小皿に一つ鎮座する淡い桜色をした塊。
榎本はきょとんと一度瞬きした。

「貰ったんですよ。先生の誰だかの差し入れだとかで。向こうから買って来られた土産とか何とか…」

和菓子も嫌いじゃないでしょう?と続けて寄越された言葉と、目の前の菓子に、
数秒間沈黙した榎本は、
うんとも、まぁとも付かない気の抜けた返事しか出来なかった。
もう長いこと連れ添うこの目の前の男は、嗜好や性格や自分でさえ気付かないような癖まで知っている節があるので、
今更ながら好みを知っていた事には驚きも何も無く。
ここに数居る先生の誰だかが誰なのか、曖昧過ぎる情報がそれほど気になるわけでも無かったが、ただ、


「もう、桜餅の季節…?」

桜餅と言えば無論、桜が芽吹いている時季限定に出回る銘菓だ。
それがもう出ているのか。と独り言のように呟けば、

「きっと既に向こうは散り際も過ぎてますよ。まぁ、ここはこれからが本番の頃合いでしょう。今頃に食べるのも丁度いいくらいでは?」

「これからが、本番…?」

松平は榎本が片付けた書類の束を卓上でトントン整え。呆れたように一つ溜め息を吐き出す。

「あぁ、やっぱり気付いてなかったんですか。ここのとこずっと庁舎に籠ってるから」

「昼はカヘル必要無いとは思ったけど」

「もう早咲きのモノは多少色付いてますよ」

部屋の窓からも山くらい見えるでしょうに。と松平が言うので、
立ち上がり、麗らかな陽が注ぐ背後の窓に手を掛け。開けば柔らかな春風が窓辺へ吹き抜け髪を揺らす。
そして、正にぽかぽかと言うのが似合いの陽気の下、拡がる景色の奥に目を凝らしてみれば
遠目でも分かるほど、枯木の茶色や白樺の白の中で、所々うっすら薄紅色が目立っていた。

「ホントだ。…もう、咲くんだね」

桜が。そう榎本は溢し。
開け放つ窓の奥を見据えた


道理で、最近松平が昼間に空気の入れ換えだと窓を開けても気にならず。ベスト一枚でも難無く転た寝しそうになった訳だ。

よく考えれば、季節らしい事を実感したのは、
一月近くも前の晩春。
黒田が東京へ出立を控えた前夜に寒の戻りと言うやつか、外出したとき夜風に白い息を流していたのが最後。
それ以来、思ったより調査案件が難航したり、会議は(主に某外国人と)行き詰まるばかりで時間を費やし。
それから松平が言うように数週間も庁舎に籠り切りの生活だ。
直ぐ目の前まで漸く訪れようとしている春の足音さえ、今まで耳に届かなかった

いや、敢えて、耳を傾けようとしなかったのか。
あの晩春に、一つ交わした約束を嫌でも思い出させる桜を見ないよう、
春を遠ざけようと無意識にしていたのかもしれない。
危うくまた見過ごすところだったけど、どうにもその景色にも肌に感じる暖かさにも、嬉しさも魅力も何も感じられない。


窓の外を観賞と言うより、感傷している榎本など尻目に、
松平は確認を終えた書類を脇に抱え。確かに。と一言頷いた。

「取り敢えず一段落ですね。今日は後の予定も入って無いですし。急ぐ物も無いので、少し休んで下さい」

「いや、個人的に気になる物があるから…」

「個人的ならいつでもいいじゃないですか」

「それが今だと思うんだよね。手が空いたんだし。こんな時だからしとくべきでしょ?」

「却下。休んで頂きます」

時刻は朝と昼の中間。
庁舎内は通常業務が行われていて、休暇でもあるまいし、己だけ暢気にしている訳にはいくまい。
あー言えばそー言う榎本を、やはりもう連れ添って長い松平はさも承知の上で、
伝家の宝刀を突き付けた。

「これは黒田閣下の御意志です」

「なっ、なんでソコで黒田が出てくるの!?居ないのに、関係なくない?!」

「ですから、意思ですよ。ここに居られれば間違いなく『命令』でしょうか」

榎本は柳眉を吊り上げ松平を見遣った。
そう言われると容易に想像が出来てしまい。反論も何も上手く見付からない。
もしこの場に閣下が居て、本当にそんな台詞を吐き出そうものなら意地でも突っぱねる自信はある。それは、かなり問題だが、
しかし松平相手に悪態ついて文句を言っても仕方無いし。ぶっちゃけ、怖いし。
榎本は一旦渋々ながら席に座り直した。やはり、癖で脚は組んでしまう。

「貴方、ここ数週間…てか一ヶ月間ぶっ続けですよ?此が終り次第に何がなんでも休んでほしい。と、松本さん永山さん連名で訴えが来てるのは本当です」

「…へぇ〜。」

「どうしても、と言うなら仕方無いので。今すぐそのコーヒーに睡眠薬入れて、お口に無理矢理ぶっ込んで差し上げましょうか、ね?」

あぁ、ホラ怖い。
とても、爽やかな微笑と共に寄越された物騒な文句と、穏やかな口調の割に全く感情が見えない切れ長の眼に、榎本は片頬を引き吊らせた。
それを肯定と判断したのか松平は頭を返し。
ついでにそのまま部屋を換気しといて下さい。と述べ、扉のノブを握ったところで、そうそう…と思い出したよう肩越しに振り向いた

「桜があと少し咲いたら、花見でもしますか。釜さん」


さらりと飛んできた言葉の意味を、榎本が理解して、思わず眼を見張らせたとき既に、
一方的に告げただけで返事は聞かないと言わんばかりに、松平の姿は扉の向こう側へ消えていた。


「……ひょっとして、バレてる…?」

相手の洞察力や端倪の眼が半端ない事は嫌と言うほど思い知っている。
榎本が、ちっと小さく舌打ちを交えて机に頬杖を突くと、
その拍子にカップの表面に緩い波紋が浮かんだ。が、それが消える頃には、瞬間沸騰したその熱はもう治まり。
後の部屋に残されたのは、さっぱり綺麗な机回りと、その卓上でくたびれる榎本と、上質な香を放つ煎れ立てのコーヒーに桜餅。
そして部屋一杯に充満するふわふわ浮くような暖かい陽気を含む空気だけだ。


窓から穏やかに差し込む日射しに背を撫でられ、ぬくい微風が前髪を触る。
まるで慈しむように。

それが似たようなふわふわと暖かくいつも慈しむような手付きで触れてくる男を、知らず思い出しそうで、
榎本は誰に見付かる訳でも無い長く深い溜め息を吐き出したら、コーヒーを一口ゴクリと啜った。

挽き立ての上等な芳香と、温かさが喉の芯まで染み渡り一息ついて漸く、仕事が一段落したのだと遅ればせながら実感させられ。
落ち着いてしまえば、他にやる事が無くなってしまう

すると、どうしたって思い出すのはあの男の事ばかりで、榎本は気付けばポツリと独り呟いていた。


「─…まだ二分って、とこかな…」


未だ未だ空地が拡がる見晴らしのいい周囲から、少し奥に望む手付かずの山林。
そこに陽当たりの良さそうな部分で転々とぼやけて見える程度の薄紅色。
近くに行かないと分からずとも、山桜の控え目な色合いにしてもまだ微々たる様子だ。
あと数日中、天候次第ではこの週末にはきっと賑わうだろう桜。
松平が言う「もう少し咲いたら、花見をしましょう」とは、
仕事も一段落した事で見頃を迎えると思う週末は空くだろうから出掛けよう。と捉えていいのか、

どこまで知ってんだか…。と榎本は、
とっくに慣れ親しむコーヒーの所為だけではない苦味が胃の底に溜まった気がして、桜色の米菓子を、
むずっと掴むと所作を外視し豪快に頬張って咀嚼した


「……ン、柔い…。」

どこで買われた物かは聞きそびれ、どう運ばれて来たか定かじゃないが、
次々と開通し始めている馬車道を使ったのだろう。
外で作られた一つの餅が、固くなる前には、
日の本の未だ開発途中な奥地のここまで、辿り着けるようになったらしい。

榎本は、素直にそれだけを感心して、桜色の甘さと柔らかさを楽しむ事にした。
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