黒×榎novel
□明治6年殖産興国大計画
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冬には雪と同化してしまう真っ白な木板の二階建ての洋館。
最上部に突き出た楼閣は独特なドーム形をして、その上に掲げられた日の丸が、パタパタと風に踊る。
そこは今や札幌へと移された北海道開拓使本庁だ。
国家が新たな変革を遂げるには、必ず背景に原動力となる経済的な後押しが必要不可欠である。
その資源を求めたのが、この北の辺境であり。その広大な領土は大きな可能性に満ち溢れていた。
ただ内政上の為だけでは無く、後の北洋漁業開拓の礎となるように産業の他にも食や資源など…この地から日本の近代化を主張し。
国境問題、外交交渉的な貿易の先駆けとして、
開拓使判官榎本は日々資源を求め野山を駆け巡っていた。
「お帰りなさい榎本さん!」
ノックもせずに扉を開いたのは開拓使大判官の松本だった。
しかし、部屋へ踏み込もうとした足を止めて眼を点にさせている
「何ですか、コレは…ちょ、足の踏み場も無い」
「あぁ、ごめんね。いま片付けてる最中なんだよ」
至る場所に石が山澄された箱や、何やら大量に草が入っている麻袋が積み上げられ。
大鳥から貰った愛用のドリルやマグネチックセパレーターなど機材が場所を取り、近くには腐る程の紙や本が無造作に散らばっていた
片付けてる最中と言う割には、榎本は机に向かってただ猛然とペンを走らせている。
榎本が言う片付けとは、松本が思い立ったこの悲惨な部屋の状況の片付けと言うではなく。
この部屋に持ち込まれている石や草や土などの資源を細かに分析して、調べると言う意味の片付けなのだ。
紙一枚、石ころ一個も踏まないように松本は、上手く大幅に片足だけを交互に床に着けて榎本の机まで漸く辿り着けた
「今朝ようやく帰って来たのに、お疲れでしょう?」
「ぜんぜん大丈夫。此の調べが一段落したら、ちゃんと休むから」
榎本は一切、チラリとも手元から眼を離さない。
この持ち込まれた大量の産物を松本は見渡して、一段落する頃には明日の朝日を拝んでいる頃合いかと察した。
こうなると榎本を制止するのは困難だ。確実に松本一人では敵わない
「松平さんは…?」
「ちょっと使いに行ってもらった」
この部屋の有り様を黙って見ていないだろう肝心な榎本の目付け役である松平は、榎本の使いで手宮辺りまで出掛けている最中。
こうして今日は心置き無く大好きな研究に没頭が出来ると言う訳だ
「いろいろ調査の話をお聞きしようと思ったのですが、先に此の片付けをお手伝いさせて下さい」
「そう?」
漸く榎本が顔を上げて手を止めた。
そして松本が微笑むと、机の上に積み重ねられた紙の束を、ドカッと両手に抱えさせられる
「ぇ…これ、全部…?」
「調査の話しなら、それを読めば分かるから。手伝ってくれると言うなら、それの後を宜しく」
「…………はい」
無邪気に浮かべた満面の笑みに、松本は思わず吊られて穏やかに頬を緩めた。
全く邪気も屈託も無い笑みの榎本から受け取ったその束は思ったより重量があり、ズッシリと松本の両手にのし掛かる
「じゃあ…岩村さんと一緒に眼を通しておきますよ」
榎本の報告書は内容がかなり具体的で事細かな詳細が、榎本らしい几帳面で繊細な文字で書き綴られている。
同じく開拓使大判官の岩村と、二人掛かりで処理するのも一苦労だろう。
一つの物に対して分析と観察、利用用途や値段は当たり前で。
産業に至っては地域周辺の様子や、経営が出来るか否の可能性まで書かれ。
開発着手の為の注意事項や意見、と言った方が明確な報告書だ。
勿論、それは榎本なら成し遂げられるだろうと政府が望んだ通りの思惑だが、
周囲はたまに付いて行くのがやっとである
最近じゃ雇った外国人と少し険悪な雰囲気にもなる榎本だが、
その苛立ちをペンにぶつけているのだろうか…そんな事も過ってしまうくらい朝から晩まで無我夢中だ
「お昼はちゃんと召し上がりましたか?」
「んー…忘れてた。いつか食べるから心配ない」
いつかとは何時だろう。
食事と言うものに、忘れてたなどと通じるモノなのか。松本は眉を八の字にしている間、榎本は再び手元に集中し始めた
これ迄も様々な事を仕出かしてきた榎本だが、今までもこのような生活を平然と続けていたのか…
松平の存在がどれほど希少かと思わされる。
函館が名を変える以前は、もっぱら松平は勿論のこと沢や大鳥が上手く合いの手を入れていたのだが
「まだ何か、聞きたい事はあるのかな?」
「いいえ、お邪魔してすみませんね。あまり恨詰め過ぎると、黒田さんが心配しますよ」
「心配?…それよりも、呑みに誘われる前に終わらせないとね。一度でも断ったら、次は絶対に一緒に来いってクドイんだもん。黒田と飲むと絡まれるから疲れるし」
榎本も相当な酒豪だが、その榎本にこうも言わせる黒田も凄いモノだ。
そして榎本が言う絡むと言うのは、端から見れば言い寄られているの間違いである。
そうと気付かない榎本が哀れか、平然と受け流されている黒田が惨めなのか…。多分どちらとも正解かもしれない。
口では文句を言いながらも、やはり榎本にとって黒田は蔑ろに出来るような存在では無く。
第三者から見れば、榎本に対する黒田の入れ込み様は半端無い。
それはもう生暖かく見守っているのも、こちらが恥ずかしくなってしまうくらいである。
「では、失礼します」
「質問とかあれば、いつでも呼んでね」
苦笑いを満面に浮かべた松本の顔をやはり榎本は見向きもせず。それだけ告げると、また一人の世界に入り込んでしまった。
やはり榎本の奇才ぶりは、世界をも認める程である。
榎本が自ら道内中へ赴き掻き集めてきた情報だ。早々に片付く訳が無かった。
「疲れた…」
読んでも読んでも減らない書類の束に、松本はギブアップ寸前である。
もう、とっくに日が暮れてしまい。片付かない書類に松本は心許なくて仕方無い。
やはり最初に予測した通り、徹夜に追い込まれそうな勢いである
その時に、天の助けが舞い降りたのだ。
「松本さんお久し振りですね。まだ起きていらしてたんですか」
「松平さんっ、黒田さんっ…!」
静かに部屋へ入って来た二人へ思わず涙を溜めて飛び付いた松本。
「丁度よかった、助けて下さい!岩村さんってば、薄井さんと一緒に建設作業の視察とか言って、繁華街に行ってから戻って来ないし。榎本さんは部屋の物を押し付けて来るしッ!!」
何だかよく分からないが、松本はわんわん泣き出してしまった。
そして、会議室の長いテーブルを埋め尽くす石炭や硫黄や土が箱に入れられ。
それの調査報告書と言う榎本手書きの説明書が、幾重にも重なって置かれている
「榎本さんからの手土産は、随分と喜んで頂けたようですね」
「嫌がらせですか!?一度に押し付け無いで下さいよ!処理が追い付かないんですからっっ…」
精を出すのは勿論いい事なのだが、持ち帰ってくる量を考えて欲しい。榎本が張り切ったお陰でテンヤワンヤだ。
松平は嫌味な程の清々しい顔をしていて、黒田の場合は榎本との文通でこうなる事を予測していたらしい。この有り様に満足そうに笑みを浮かべている。
「そいで、榎本さぁは?」
「お部屋にいらっしゃいますよ。何とか引っ張り出せませんか?」
「あーなると、手を付けられないからな」
「出来上がった書状をわざわざ部屋まで持って来て下さるのですが…」
「あ、太郎ちゃんお帰り」
松平と黒田の後方から入口に顔を出したのは榎本だ。
その手には、また何やら書類などを持っている。
まだ残ってんのかっ!と、松本は内心だけで悲鳴を挙げた
「黒田も一緒に来たの?今日はもう夜遅いから来ないかと思ってた」
「遅くなりもした…」
「偶然にも玄関で鉢合わせになりました。お忙しいのに、榎本さんが帰って来るからと駆け付けて下さったそうですね」
松平の冷ややかな視線を気にもせず年甲斐も無く頬を桜色に染めている。
吹雪だろうが槍が降ろうが、例え火のなか水のなか、榎本が居れば黒田は化けてでも現れるくらいの意気込みだ。
「無理しなくて良いのに。どうせ明日になったら、嫌でも顔を合わせるんだからさ」
嫌なのかな…?と黒田以外の脳裏に過る。
照れ臭そうに頬を掻く黒田の広い背中をバンバンと叩いて、ははは、と榎本は笑い飛ばした。
「少し時間が遅いですが、呑みにでも行きますか?」
「そーですね!土産話でも聞かせて下さいよ」
松平の提案に松本が真っ先に瞳を輝かせた。しかし、榎本だけは浮かない顔をする
「まだ調べ物が部屋に残ってるからね。片付いたら後から行くよ」
「そんな無粋なこと言わずに。久々に札幌へ帰って来たんだし」
「榎本さん。貴方また朝から今まで、飯も食わずに続けてたんでしょう?」
向き直った松平の眼が心なしか怖い。
榎本は条件反射で腰を退きそうになる
「まったく、貴方って人は。目を放すと直ぐにコレだ」
「榎本さぁ…」
黒田まで榎本の前に立ちはだかった。見下される眼がこちらも怖い。
更に黒田の体格差も加え、笑って誤魔化そうと榎本は満面で愛嬌を造った
「そんなに呆れなくても…」
「許しもはん」
逃げ腰になる榎本へ手を伸ばした黒田がギュッと抱き締めだした
「人前で何すんのっ!」
その松平と松本は既に慣れた様子で動じる事は無い。
人前じゃなければ良いのだろうか…そう口にも出さない。
榎本は嫌だと暴れ続けるが、黒田との力の差さは歴然とハッキリしていた
「疲れてなんかないって、やらなきゃいけない事あるんだからさっっ…!」
「あんまり恨詰めんよう言っちょるンに…」
不意にボソリと黒田がいつもと同じく不器用に呟いた
すると喚いていた榎本は敢えなく押し黙り。暴れていた動きもピタッと止める
「離したくなか─…」
まるで置いてきぼりをされたような童のように、少し拗ねた表情の眼が縋る
「………分かったよ」
観念した榎本はグッタリと項垂れた
しかし、ここで容易く諦めてなるものか。やはり榎本はそう簡単に屈しない
「店入るくらいなら、経費削減で此所で呑もう!それなら付き合う」
三人は何を言い出したかと少し眼を丸くさせた
「それじゃ気に食わないって?」
榎本がキリッと黒田を見上げると、黒田は物凄い勢いで首を横に振るった。
本当は、久しぶりに会えた榎本と落ち着いて酒を酌み交わしたいところだが、
ここで口答えをすると、ひねくれて宴まで断られそうだ。
この際だから、榎本さえ居れば黒田は満足である。
「何が哀しくて職場で呑まなきゃならないんですか」
酒が不味くなる。
と、ごちる松平の声は幸いにも誰も聞いていなかった
「肴はどうしましょうか。あ、酒は黒田さんの部屋にあるモノ出して下さいね」
なぜ松本がそれを知っているのだろう、黒田だけは動揺した。
本人が隠し持っているつもりなだけで、こっそり部屋の戸棚に常備している数々の焼酎や日本酒を知らない者はいない
「肴なら、ソコにあるじゃん」
榎本は机に並べられた多くの研究材料の中から、丸々一匹のサケを取り出した。
確かに魚であるが『肴』のサカナでは無い
「榎本さぁ…そげん─…」
「味見だよ、味見。一匹くらい大丈夫だって。あぁ、それともニシンが良い?」
「そいじゃあ…サケで」
黒田は榎本のノリに圧されているだけである。
これは惚れた弱味を通り越して、既に尻に敷かれている領域だ
「はい、太郎ちゃん。捌くのは任せた。頭と半身は煮付けで、後はルイベで宜しく!了介、さっさと酒を出しに行くよ」
やはり呑むとなれば気を抜かない榎本だ。
サケを松平に預けると、意気揚々て黒田を引き摺って部屋を出て行ってしまった
「これは…作戦が成功したと言えますか?」
「手間が増えたと言うほうが懸命でしょうね」
それから黒田の所有物を無遠慮に呑みながら榎本は、
もちろん場所が庁舎であるが故に後に名産となるサケの話や仕事の話が尽きなかった。
あの黒田でも流石に酔いを捩じ伏せられていたと言う
終
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開拓使でもやっぱ総裁は最強だと思う!
加筆して題名変更しました。
※ルイベ…サケを凍らした刺身。アイヌ語