土×榎novel-SS

□今日は君が繋がらない
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もう少し。
あと5cmで触れ合う距離にある、相手の唇。


「本はもういいのか…?」

口端が吊り上がって小さく笑われた。近くで紡がれたその言葉は殆ど吐息となって零れている。
いいからこんな事をしているのをわかってて囁いてくるのが、わざとらしい。
でも自分は小さく頷いて答えて、更にゆっくりと近付いて1cmずつ間隔を狭くする。あともう少し。
お互い顔を見合いながらすると言うのもムードに欠けると思う。
何より、恥ずかしくて自分が耐えられない。そろそろ目をつぶってもいいかな。
そう思って瞼を閉じかけた時、不意に相手の動きが止まった。

少しの間。止まった相手は一向に動こうとしない。
どうしたのだろう。あと少しで触れ合えるのに……。
ん?問い掛けてみるも答えはない。そして、急にふいっと顔が逸らされてしまった。
驚いて見上げると、さっきまで意地悪く笑っていた顔が真剣味を帯びている。
そして、その目線は目と鼻の先にいる自分ではなく、部屋の扉に向いていた。

「…来た」

ぽつりと呟かれた言葉に首を傾げた。
え?来たって?と聞く前に、コンコンと扉がノックされた。

「土方先生…」

開かれはしない扉の向こう側から沈着で低い声が届いてきた。それは彼の側近。
島田か。と彼は呼び掛け。私の肩を掴んでぐいっと、引き離した。
そして長椅子から降りて忙しなく上着を着て襟を整え、刀を手にして。
こっちを見向きもせずに行こうとするものだから、

「…!…どうした?」

思わず、上着の裾を掴んでしまった。彼は肩越しに振り返って、不思議そうな顔で見詰めてくる。
でも、無意識の行動だっただけに自分も戸惑ってしまった。これじゃまるで引き止めたみたいだから。
だって今まで一度足りとも自分はこんな事をしたこと無い。いつも、大変だねって、ご苦労様って見送るのに。
あれれ、今日に限ってどうしたのか自分自身でもわからない。だから、どうしたと言われても困った。
何も言わない自分に彼は、身体をまたこちらに向けて視線を合わせた。さっきと同じ距離。

「悪ィな、おあずけだ」

彼は苦笑して、ちゅ、と額にキスを落としてきた。
でも、今日はなんだかそれでは納得出来ていない自分がいて。
だからと言って、引き止めた明確な理由があるわけでも無くて、それどころか引き止めてちゃいけないとも、理解している。
いま彼が出て行ったら最後、もう会えなくなるような気がした?これが虫の知らせってやつ?
違う。確かに彼が死なない保証はどこにも無い。けどそれは自分も同様で、そんなの今に始まったことじゃないし。
分かってる。彼も自分も、やるべきことは沢山ある。
それに特に彼は、いろんな役職も含めてこの国の監督に当たる立場で。
なにより彼の中での一番は、きっと自分では無い。
自分だって一番優先すべき事は、優先している事はあるだろうに、
そう思った瞬間胸に込み上げたのは、ドロドロと重たく濁った醜い感情。
それを表現する言葉が今の自分にはわからない。
なんと言っていいのか淀んで、どんな顔をしたらいいのかもわからなくて、ただ唇をきゅっと固く結んで、掴んだ上着を黙ったまま手離した。
相手もそんな自分をどうしたらいいのかわからないようで、
今度は本当にすまなさそうな顔をして、掌でふわりと頬を包んで附せた視線を上げさせられた。
ああ、ごめんね。彼がそんな顔をする必要は無いのに


「今夜、な。部屋に居ろ」

見上げれば端整な男の顔がやんわりと降ってきて、次は目蓋に口づけされる。
だから、欲しいのはそこじゃないのに。なんでこんな時に限ってそこかな。
そんなことすら言えずに、
部屋を一歩出て、そこからは数千の兵の信仰を仰ぐ軍神となる彼の背中を、ただ自分は見送ることしか出来なかった。


行かないで、なんて台詞を素直に言えたら、どれだけ楽だろう。
まあ素直に言えるとか言えないとかじゃなくて、自分は言うべき立場じゃないのは知ってる。
でも逆に言ってしまったら、彼はどんな顔をするだろう。
笑うかな。呆れるかもしれないし。怒るかもしれない。
それでも「仕方無いやつ」と笑ってくれるかな。
自分の欲張りな性格は今更直るようなモノじゃないだろうし、直す気なんてさらさらない。
昔から欲張りたい事が多くて、気付けば自分は今ここでこうしているわけだから。
でもそれが、今は何故か苦しい。
普段から我が儘放題な奴で通ってるんだから、今だって言ってしまえばよかったのに。彼を欲張ってしまえばよかったのに。
でもそれは、とても出来なかった。


この鬱屈した気持ちを振り払いたくて読書の続きでもと窓辺に椅子を移動した。
外は晴れていて、窓から差す陽光は丁度いい具合に本を照らしてくれる。
ふと、視線を外に移すと行き交う人々の中に出て行く彼の姿を見つけた。
その彼の周りには、今も、いつも沢山の人が居る。
今は彼に総統される屈強で物々しい感じの取り巻きだけど、普段の時は彼もその周りも楽しそうにしている。
『西洋かぶれ』だとか陰口を言われているらしい自分の身を考えると、彼のその姿を見る度に、確かに羨ましい。
けど、それ以上にそんな彼に想われていることが自分は誇らしいと思う。
自分は他人と、服、持ち物、髭の形、考え方や世界の見え方が違うだけ。彼は、それを否定しないし。
自分は彼の考え方や価値観、私にはわからない彼がこれまで生きてきて知ってる世界を否定しない。
それで何が不満?何か不安な要素でもある?
誇らしいの裏側に、妬みや蟠りが無いとは言い切れないし、彼の中の一番が自分じゃないのをわかってて、
自分が彼を好きだから、彼が好きなものも大切にするものも、自分だけじゃないと嫌だ。なんて、烏滸がましいにもほどがある。
そう理解していてどうして、彼を引き止めたんだろう。
実際に欲張って「行かないで」って口に出して、彼を困らせて「仕方無いやつ」と笑われればよかったかな


窓の外の彼が、ふいに振り向いた。
明るい外から建物の中の顔が見えるとは思えない。
わかる距離じゃないと思うのに、彼はこっちに向かって手を一度だけ振り上げた

それに自分は思わず、泣きそうになった。
醜いことを考えている自分が、堪らなくなった。

窓に背を向けて、

「あーあ、仕事しよ」

わざと軽い調子で呟いた。








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