最遊記短編
□囚われ人
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部屋に戻ると、三蔵はやわらかなソファの上で眠っていた。
窓からは穏やかな午後の陽射し。
鳥のさえずり。
ささやかな風。
そっと扉を閉め、忍び足でソファに向かう。
聞こえてくる、規則的な寝息。
三蔵は気配に聡いから、起こしてしまわないよう、時間をかけて近づく。
横たわる三蔵の胸の辺り、床上に直に座り込んで、ほっと息をついた。
三蔵を見る。
やわらかな陽射しに、透けるような金糸。
まばゆくて、とてもきれいだ。
白皙の、整った顔立ち。
いつもいかめしくしかめている眉は、寝ている間もあまり変わらないけれど、それでもいくらか和んでいる。
この人の気難しい性格は、あの強い瞳を閉ざしていても、気高い美貌によく表れている。
それが不思議なほど似合っているからおもしろい。
そっと微笑んで、視線を落とす。
しくんと、痛む胸。
───この人と、出会えなければよかった。
この人は恐い。
とても恐い。
最初は普通だったのだ。
ただ「ちょっと気難しそうな人だな」と感じただけで。
けれども、言葉を交わすたび、あの目に射られるたびに、どんどん恐くなっていって。
気づいたら、いろいろなものを失くしてしまっていた。
心の平穏。
それまでの理念。
それまでの価値観。
それまでの、自分自身。
すべて、奪い去られていたのだ。この人に。
それはまるで殺人のよう。
いや、ただ殺すより徹底している。
一個の人間を、この世から完全に消滅させてしまったのだから。
完全に打ち砕き、根本から変えてしまったのだから。
だから恐いのだ。この人が。
そんな、本人にも為せないことを、あっさり為せてしまうこの人が。
いつの間にか変わり果ててしまった自分は、もう自身でも制御ができなかった。
懸命に平静を装っているけれど、本当はいつも、いつも三蔵に翻弄されている。
この身体には、血の代わりに、何か正体の知れないものが流れているのだ。マグマのように熱い何かが。
そうしてそれが、三蔵の視線に、言葉に、一挙手一投足に反応している。ひたすらにこの身を焦がし、責め苛む。
まるで、「お前はもう三蔵なしでは生きていけないのだ」と宣告するように。
たまらず、息を吐き出す。
この人と出会えなければ、こんな苦しみなど知らずに済んだ───。
「……どうした」
少しかすれた声。
どきりと目を上げると、三蔵の瞳とぶつかった。
まだどこか夢見がちな、深い、深い紫の双眸。
───ああ、駄目だ。
また、囚われてしまった。
この眼差しに、声に、何重にも囚われてしまっていて、もう呼吸もうまくできないのに。
出会えなければよかった。
───そんな後悔さえ、殺されてしまう。
ふるふると首を振って、ぽすんとソファに頭を預けた。
「……おやすみなさい」
ずいぶんと、か細い声になってしまった。
不自然に聞こえなかっただろうか。
そんな心配をしていると、ぽんと頭の上に手を乗せられる。
心地よい重み。
じんわりと伝わってくる温もり。
温かい。まだ眠いのだろう。
三蔵は無言で髪を弄んでいたが、じきに、その動きを止めた。
また、小さく寝息が聞こえてくる。
頭に置かれた手の温もり。
静かな、安らかな寝息。
窓の外の軽やかなさえずり。
なにもかもが切なくて、でも、とても心地よくて。
この人と出会えなければ───と後悔しながら、
それなのに、
ずっとこのままでいたい───と。
そんな、はかない願いを抱いてしまった。
(完)
掲載日:2005.2.16.
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