文章♯
□知らぬが仏
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それは、昼の休憩時間のことだった。
休憩室には今、ぼく、カズマサとノボリさんとクラウドさんがいる。さっきまではクダリさんもいたのだけれど、ダブルトレインのメンテナンスがどうとかで呼ばれて行ってしまった。まあそのうち戻ってくるだろう。
「あれ、黒のボス。手に歯形ついとりますけど、ポケモンにでも噛まれはったんですか?」
クラウドさんの声にぼくもノボリさんの手を見ると、確かにうっすら歯形がついていた。手の甲に上半分ということは、手のひらにもついているのだろう。
ぼくらの視線を受けて、ノボリさんはどこか照れくさそうにした。
「ええ…まあ。手袋で隠れるからと油断しておりました」
確かに、普段ならわからなかっただろう。しかし今は昼食を摂るために手袋は外されていた。
とは言っても、こうして近くで見なければわからない程度の跡なので、この場で気づかなければ知らないままだっただろう。
でも不思議だな。手を噛むような奴なんて、ノボリさんの手持ちにいただろうか。新しいポケモン捕まえたのかな?
休憩時間は長いようで短いので、思索に耽っているわけにもいかない。ひとまず疑問を横において、弁当の蓋を開けた。
「そう言えばクラウド、奥様と喧嘩されたそうですが、仲直りは出来ましたか?」
「白のボスに聞いたんですか? いやあ、お陰さまで元通りですわ」
「それはそれは、おめでとうございます」
「言うても大変やったんですけどね。寝室にも入れてもらえんかったさかい、ソファーで寝たら身体中痛うて」
「どうやって仲直りしたんですか?」
「ケーキ買うて帰ったんや。嫁さんはあそこのケーキがえらい好きでなあ」
「あ、ノロケですか」
「やかましい。お前が話せ言うたんやろが!」
「あはは!」
「ふふ」
「あ、黒のボスまで! わしの話は笑い話とちゃいまっせ!」
そして、小さな疑問を忘れかけていた頃。
一足先に食事を終えたノボリさんが、簡易流し台の方を見て眉根を寄せた。
「ああ、クダリったら。またゴミを置きっぱなしにして」
言葉の通り、そこにはひしゃげたジュースの紙パックが放置されていた。クダリさんが朝礼のあとに飲んでいるのをぼくも見たから、彼のゴミで間違いない。
やれやれ、と言いつつも立ち上がってそれを片付けてやっているあたり、ノボリさんは大概クダリさんに甘い。あとで注意はするのだろうけど、甘い。
ふと、紙パックに刺さるストローに目がいって、ぼくは思わず変な声をあげそうになってしまった。
円筒の筈のストローは、噛みたおされて平べったくなっている。
突然口を押さえたぼくをクラウドさんが不思議そうに見てきたけれど、説明は出来そうにない。だって、わかってしまったのだ。
ノボリさんの手に残る歯形が、誰のものか。
噛み跡を指摘されたときに見せた表情。どうして照れたのか不思議だったけれど、今思えば、あの時に瞳に映っていたのは愛しさだったのだ。
だいたいその歯形、人間のものじゃないか!
そうなるともう、歯形がキスマークのように見えてきてしまって。白い手が手袋で覆われるまで、ノボリさんを直視出来なくなってしまったのだった。
END
被害者カズマサ。
クダリには噛み癖があるといいなあと思って。ストローとかアイスの棒とか噛み噛みしてたら可愛い。
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